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(1) 〇 京都の山と川 (鈴木康久、肉戸裕行:中公新書) 2026.1.15
2022年刊行 (2025.9.14 丸善京都本店 BAL))
昨年9月13日に日本学術会議近畿地区会議学術講演会を聴講した。テーマは「社会の持続可能性と水問題」。5つの講演があり、2番目の講演「水が育んだ『千年の都・京都』」の講演者が本書の著者でもある鈴木康久さんだった。その時は3つの観点で話をされた。@精神性 A計画性 B文化性。精神性として、水の神
貴船神社を紹介。計画性としては、計画的に水路を設けたこと(左京8本、右京4本)を紹介。文化性として豊富な良い水に育まれた文化を紹介。話についていけないところがたくさんあってもう少し知っていたらもっと楽しいだろうと思い、本書を読むことにした。
本書もかなり詳しくいろいろなことが書かれている。なかなかに楽しいのだけれど、平安時代からの歴史、京都の地理が頭に入っていないので、時々は途中で検索して調べるものの、ほとんどは斜めに読み進むしかないのが残念。
(メモ)
・雲母坂そばの音羽川が1972年の豪雨で土石流発生。270世帯の住宅が流された。
⇒大学の時、近くをよく散歩した。このことは全く知らなかった。
・京都の地形は三山(東山、北山、西山)から京都盆地の中央に向けて傾斜しており、東側を流れる鴨川の水は東から西へと溢れる。つまり、鴨川の東側は西側よりも安全となり、鴨川の西側は水害に見舞われることが多くなる。
・平安京の中国の都との違いは、南側だけに城壁を設け、他の三面には防御施設を設けなかったこと。鴨川と桂川が堀となり防御の役割を果たすと考えたのだろう。
・平安京は京都盆地の中央北側に造られたことから、鴨川、桂川から溢れ出た水は盆地中央に集まり、都は水害を免れることができない。平安遷都からの600年で363回洪水が起こった。
・鴨川周辺は桃山期から江戸前期に劇的に変化。御土居堀、高瀬川、寛文新堤。
・御土居堀は豊臣秀吉が1591年に整備した惣構。整備された範囲は、西は紙屋川、北は鷹峯、東は鴨川、南は東寺。東西3.5キロ、南北8.5キロ、全長22.5キロ。形状は土塁の基底部が幅18m、犬走(平坦部分)3m、高さ5m、堀は幅14m、深さ4m。御土居は河原町通の西側に造られた。この御土居堀の位置が平安期から続く堤防の位置ではないか。
・御土居堀によって鴨川周辺と都が分断され、鴨川は都の生活空間から遠い場所になった。自由な空間が生まれることで歌舞伎を始めとする遊芸を発展させた。
・高瀬川は1614年に角倉了以・素庵が作った京都と伏見をつなぐ10.5キロの運河。洪水の影響を受けない。御土居堀の鴨川側に物流拠点ができたため、消費地である都と分断される不都合が生じたと思われ、鴨川沿いの御土居堀が取り除かれることになった。取り除かれたのは今出川通りから下流の鴨川沿いだけで、その他の御土居堀は明治期まで存続。
・1668年から1671年に鴨川の護岸整備が行われた。「寛文新堤」。新堤によって400〜500mあった鴨川の川幅は120mに狭められた。西堤の堤防は高さ3.6mで東堤の2倍。洪水は東堤を越えた。西堤は毎年のように修復しており、洛中を守ることが優先された。今でも三条から四条の間の西側に当時の堤を見ることができる。
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