平出修「逆徒」 :2011.1.4
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 平出修は大逆事件で幸徳秋水ら被告の弁護人を務めた人物である。
 1878年生まれで、裁判の公判を行っていた1910年当時32歳だった。
 田中伸尚『大逆事件』によると、被告は当初、裁判を茶番だとみていたが、
 平出の
弁論は被告たちに感動を与え、監獄から平出本人や堺利彦らに
 感謝の意を伝える書簡が寄せられたそうだ。
 
 平出は1913年の博文館発行の「太陽」9月号に、大逆事件の裁判を
 描いた小説「逆徒」を発表した。ところが内務省が「太陽」9月号を発行
 禁止処分にした。博文館は発禁処分を受けた翌日に「逆徒」を別の作品
 に置き換えた訂正版を発行した。
 このように書くと博文館という会社が抵抗を示さなかったように見えるが、
 「太陽」翌月号に平出修の「発売禁止に就て」という反論の文章を掲載する。
 ただし、途中の200行を編集部の判断で削除した。発禁処分を再度受け
 たら平出氏の大逆事件に関する文章が全部表に出なくなる。ぎりぎりの
 ところまで掲載し、削除した部分は削除したことがわかるようにしたのだろう。
 ただし、生原稿が残っていないので削除した内容は不明なままだ。
 
 田中伸尚氏の本を読んだ後、平出が書いた「逆徒」と「発売禁止に就て」を
 読みたいと思って捜した。幸いなことにインパクト出版会から昨年8月に
 出版された『逆徒「大逆事件」の文学』の中に掲載されていることがわかり
 年末に購入して年明けに読むことができた。
 「逆徒」は上記本の30ページほどの短編である。次のような文で始まる。
   「判決の理由は長い長いものであった。それもその筈であった。之を約
    (ツヅ)めてしまえば僅か四人か五人かの犯罪事案である。」
 この判決では24人が死刑判決を受けている。無理やり範囲を広げている
 ことを最初から痛烈に批判している。
 作品は上記の文から始まり、理不尽な容疑を受けている大阪のブリキ職人
 三浦安太郎をモデルとした人物の様子や、判決を受けた後の菅野須賀子の
 発言と様子、それを見た弁護士の感じたことなどを書いている。
 そして最後に新聞記者との会話を通して、裁判官が実際には死刑が執行
 されないかもしれないと思いつつ判決を下したかもしれないという疑惑を感じ
 「俺は判決の威信を蔑視した第一の人である。」という言葉で締めくくっている。

 平出修はもともと歌人で、石川啄木とも親交があり、啄木は平出からの情報で
 事件について詳しく知り文章を残している。
 大逆事件の死刑執行から3年も経たない時点で本書を記し出版するという
 ことは、著者、出版社ともにかなりの覚悟が必要だったろう。それでもやろう
 とした人々がいたのだ。
 ではどういう人は立ち向かっていけて、どういう人はできなかったのだろう。
 当時の知識人の言論、行動をもっと知りたいと思う。

 なお、平出修は反論文を書いた翌年1914年に37歳で亡くなっている。
 生きていれば、大逆事件について再度書いたはずだ。残念だ。