「夢を持ちなさい」に対する違和感 :2008.11.7
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3日の新聞に、大阪樟蔭女子大学の広告が掲載されていました。
作家の田辺聖子氏が卒業生で、田辺聖子文学館がキャンパスにあるそうです。
その広告には「夢」という言葉が何回も出てきて、理事長のコメントにも、田辺聖子氏が
日頃から学生に「夢を持ちなさい」と話しているということが紹介されています。
この広告に限らず、いつの頃からか、「夢を持ちなさい」という言葉を時々聞くように
なりました。
「夢」は持っていて悪くはないと思いますが、教育の場で「夢を持ちなさい」と
いう話をされると、少し違うのではないかと思います。
「夢」とはどういうものでしょう。
広辞苑で「夢」を引くと、
@睡眠中に持つ幻覚
Aはかない、頼みがたいもののたとえ
B空想的な願望
C将来実現したい願い。理想。
という意味が出てきます。
「夢を持ちなさい」という人はCの意味で夢という言葉を使っているのでしょう。
ただ、一般的な夢という言葉のイメージは広辞苑の記載と少し違っていると
思います。
「イチローが夢をかなえた」 「北島選手がオリンピックで優勝して夢をかなえた」
こういう場合、立派なことを成し遂げ、地位や名誉、お金を手にしたことを「夢をかなえた」と
表現しているような気がします。
そして、理想や将来の願いというだけでなく、結果として何かを手に入れることに対して
「夢」という言葉を使っていることが多いと思います。
幼稚園児や小学生に夢を持とうと言うのは構いません。でも、大学生にまで
「夢を持ちなさい」というのはおかしいのではないでしょうか。
例えば、ある学生が、将来、福祉の資格を取って困っているお年寄りや障害者の方を
助けてあげたいと考えていたとします。
その学生が、「あなたの夢は何ですか」と問われたら何と答えるでしょうか。
「福祉の仕事に就いて人の役に立つことです」と答えられるのなら問題ありませんが、
それを自分の夢と表現することに疑問を感じないでしょうか。
そして、「夢を持ちなさい」と言われたら、自分が目指していることは小さなことなんだろうかと
悩んでしまうのではないでしょうか。
私は理想に意味がないと言っているのでは決してありません。
学生に持たせるのは「夢」ではなく「志」だと思うのです。
「夢」は何かを成し遂げた後の状態にしか過ぎないように思います。
また、学校で教えるのは「夢を持たせること」ではなく、目指すことを実現させる力や
夢が叶わなかった場合でも生きていける力のはずです。
「夢」という言葉は美しい。美しいゆえに無批判に使ってしまいます。
でも、その言葉はかなり世俗的色彩を帯びてもいると思います。
私がこだわっていることは、どうでも良いことなのかもしれません。また、ずれているかも
しれません。
でも、違和感を持ちます。うまく私の感じる違和感が伝わるか不安ですが
今書けるのはここまでです。
なお、今回書いたのは大阪樟蔭女子大学を悪くいうためではありません。
広告の中の学長の言葉には、夢という言葉は使われておらず
『「読む」「書く」「聴く」「話す」に代表される表現力はとりわけ大切です』と
書かれていることを最後に付け加えておきます。