朝日新聞は戦争をどう報じたか :2006.7.17
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朝日新聞は今年「歴史と向き合う」という特集を組んでいる。最近も第2部として
「戦争責任」を取り上げ、東京裁判や天皇などについて興味深い記事を載せている。
その中で、「朝日新聞は戦争をどう報じたか」というテーマが扱われている。限られた
枚数で書かれていることもあるが、何か本質から外れている気がしている。

その記事では、戦争に協力する段階を3つに分けている。
(1)『統制』
   1909年新聞紙法・・・内務大臣に販売、頒布禁止権。
                陸軍、海軍、外務各大臣も掲載禁止を命令できる。
   1918年白虹事件・・・米騒動をめぐって批判する新聞と政府が対立。発売禁止を
                求められるなど朝日新聞は危機に陥る。
                2ヵ月後、朝日新聞が全面謝罪
  満州事変後、新聞紙法の下での差し止め件数は急増
(2)『転機』
   1931年満州事変
   自衛の反撃という虚偽の軍の発表をそのまま報じた。現地の記者には日本軍が
   自ら爆破したという情報も入っていたらしい。
   満州事変後、「東北各省は中国の一部」という主張を転換し、満州国の設立が必
   要と社説で主張。また、日本の対満州政策を不当とする国際連盟に対抗して
   「満州国の存立を危うくする解決案は認めない」とする共同宣言にも朝日は名を
   連ねた。
(3)『鼓舞』
   1941年の真珠湾攻撃以降は、戦果を誇張し好戦一色になった。

また、この他に、「二つの髑髏」という記事が載っていた。これは日露戦争末期の1905
年に載ったどくろのイラストと1944年に米国の女性が机の上の日本兵のどくろを見つ
める写真について書いたものだ。この記事の最初に、次のようなことが書いてある。
  『(日露戦争末期)政府は当時、ロシアとの講和会議に臨んでおり、満州の鉄道経営
   権などを勝ち取ることで戦争を終えようとしていた。朝日は記事で「五万の生霊」を
   失って得た勝利なのに取り分が少ないと、政府を突き上げた。』 『四半世紀後の
   31年、満州事変が起こる。朝日は当初、拡大志向の軍部を批判し、対立していた。
   当時、編集局幹部が軍幹部に会い、社説のどこが悪いのかと問いただしている。返
   事はこうだった。「日露戦争で多数の血を流してやっと獲得した満州の放棄論をする
   ような奴は、国家のために許しておけん」 英霊の力を、今度は朝日が受け止める番
   だった』

今回の記事全体として、軍部の圧力に屈して真実を伝える使命を果たせなかったというこ
とが書かれている。確かに圧力に屈したことは事実だろう。しかし、圧力があまりなかった
場合なら使命を果たせただろうか。私はそれもかなりあやしいのではないかと感じている。
軍部の圧力に屈する前に、国民の感情に合わせる方向に進んだのではないだろうか。私
はこの辺りの情報を持っていないので確かなことは書けないが、最近の社説を見ていてそ
のような気がしている。まず、統制が強まる前の状態、特に日露戦争をどう扱ったかから見
直す必要があるだろう。