〜 誕生日の贈り物 〜
「おい、アンドレ。何だってこんな所で寝ている!? 起きろ!!」
愛しい妻が俺の肩を激しく揺する。実際には俺に対する愛情がたっぷりだと分かってはいても、こうも乱暴に起こされると、ちょっと抵抗してみたくなる。
「う〜ん……オスカル。……おいで」
寝とぼけたまま両手を伸ばし誘うと、思いっきり呆れた視線を俺に向け、
「私は忙しいんだ。早く起きてくれ。珍しいな、おまえが朝寝坊なんて。何をそんなに疲れるような事があったと言うのだ?」
そっぽ向いたまま、おまえは一気に捲し立てた。
「はい……???」
驚いた!! じゃあ、逆にお尋ねしますが。昨夜、思いっきりハタラかされて、もうそう若くもない俺が朝からもうひと頑張りできるくらい体力があり余っている方が良かったか?
俺は視線だけでそう尋ねてみた。疲れきっている俺とは逆におまえはとても良い表情をしている。相変わらず忙しいのは分かっているが、最近は特に疲れが溜まっているのか何だか食欲もなく、とにかくだるさや眠気を訴えていたおまえを心配していたが、何やら今日はとても華やいでさえいる。
そんな美人妻に見とれていると、おまえはもう一度冷たい視線を俺に投げ、
「今日は、父上と母上も交えて、大事な話しがある。いつまでもこんな妙な所に寝ていないで起きて来てくれ」
おまえはそう言うと、さっさと寝室を出て行った。"おはようのキス"もなしだ……。
いてて……。体中が痛い。
俺はもっとけだるい余韻を楽しんでいたかったが、諦めて起き上がろうとして、気づいた。
いや。オスカルが変な言葉を投げかけた時からその目線の高さに、軽い違和感を感じてはいた。だが、床に手をついて(そう、床に。――床に手をついて)身を起こした瞬間にオスカルの言葉の意味がやっと分かった。
何だって、俺は二人で休んでいたはずの寝台から下りて、床に寝ているんだ……? 暑かったからか? しかし。この、元はオスカルの部屋、今は俺達夫婦の寝室の毛足の長い絨毯の上に直寝する方がよほど暑いはずだ。しかも、抱き枕までしっかり抱え込んで……。まさか、妻と枕を間違えたなんて、シャレにもならないじゃないか。
何だか状況が良く分からないまま身支度を整え、準備されていた軽い朝食を済ませると居間へと向かう。
さっきオスカルはだんな様や奥様も交えて大事な話しがあると言っていた。
何だろう……? 結婚のご報告の時は、勿論オスカルと俺は事前打ち合わせをしっかり行なってから挑んだから、俺の気持ちも案外平静だった。だが、今日は、オスカルから何の前振りもなしだ。しかも、冷たいほどの先刻のおまえの態度。
まさか。離婚話を切り出されるとか!? もし、仮にもそんな話だったとすると、昨夜もあんなに仲良しこよしだったのは、何だったんだ、と言いたくなるよ、な……。
それよりも、何よりも……。オスカル。忘れているかもしれないが……。
今日は、俺の、誕生日……。
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軽くノックをして居間に入ると、オスカル、だんな様、奥様。そして、おばあちゃんまでもが既に着座していた。俺は遅くなった旨を詫びるが、みな異様なほどニコニコしている。慌てて腰かけて、だんな様の言葉を待つ。が、意外な事に第一声はオスカル自身からだった。
「アンドレ。私は、軍を辞める事にした」
回りくどい言い方など好まずストレートに用件を切り出すオスカルに、あっぱれと感心したが……。いや、感心している場合ではない。今、何と言った???
ワタシハ グンヲ ヤメルコトニ シタ
文節ごとに切られ、オスカルの言葉が俺の中でリフレインする。
「……何で!?」
日頃の俺なら、いくらおまえの夫になったとは言え、だんな様や奥様の前ではどんな事があろうとも無表情を貫く自信があった。……だが。今はどうだ。全く逆。おまえの言葉に俺一人がうろたえ、お三方は何とも涼しげな顔で冷茶など啜っている。おまえの表情も変わらない。
「何で?」
とりあえず離婚話ではなかったと心中ホッとしながらも、おまえの爆弾発言に俺は同じ質問を投げかける。おまえは、曖昧に微笑む。
「続けたいんだが……ラソンヌ先生から、止められた。ドクターストップがかかってしまったからには従うしかあるまい」
妙に悟りきった言い方だ。確かにこのところのおまえの体調不良は俺の中でも心配事のトップだった。だが、相変わらず仕事は淡々とこなし、その合間を縫うように人払いをしては所構わず横になっている状況が続いていた。その度に無理をするなと声を掛けると、おまえは少し横になれば気分も良くなると笑って答え、事実、その後は何事もなかったかのように仕事に没頭できる。そんな事を繰り返す。疲れがピークに達している事は気づいていたけれど、何よりもおまえは仕事が――フランス衛兵隊の連中の事が大好きだって知っているから、極端な話し、自分を犠牲にしてでも軍務を続けると言いかねないと思っていた俺には、つい先刻のおまえの言葉はにわかには信じがたい物だ。
「何で……?」
俺は、他に言葉を知らない、ナントカのひとつ覚えのごとく同じ問いを繰り返した。
「ん〜。仕方ないんじゃないか?」
「……そんなに悪いのか?」
最早、甚だ失礼ながらだんな様や奥様には(勿論、おばあちゃんにも)別世界に行っておいていただく事にして……視線の端にその存在は感じつつも、俺はオスカルだけとの会話に専念する事にした。
「悪いと言うか……悪いのだろうな、多分。……とにかく、軍務に就くのは難しいそうだ」
「オスカル」
俺は喉の奥が乾ききっている事に気づき、眼の前の冷茶に手を出した。おまえも、俺に合わせるかのように茶を啜る。なぜか、オスカルの分だけ温かい茶だ。
「ラソンヌ先生から身体を冷やさないように、と言われた。この暑いのに冷茶どころかヴァンもダメだそうだ」
おまえはそう言うが、にこやかに微笑んでおり全く持って悔しいと言う感じではない。
「薬は?」
「ない。……と言うか、うん。必要ないそうだ」
ますますわけが分からない。物言い自体はいつものおまえと変わらないが、どことなく歯切れの悪さを感じる。
軍務を辞めなければならない。だが、薬を飲むような病気ではない……。
「オスカル……」
俺は、そっとおまえの両肩に手を置き、
「おまえにとって軍を辞めるという事は、そうそう簡単に納得のできる事ではないと思っている。そんな早急に結論を出さなければいけない事なのか?」
「アンドレ。私もできれば軍務は続けたいと思っていた」
「俺ができる事は代わるから。だから、辞めたくないのなら尚更、今すぐ決めなくても良いのではないか?」
「う〜ん」
また、"う〜ん"だ。代替案でも探しているのかしばし無言だったが、
「こればっかりは、おまえにも代わりは無理だと思うな。……と言うか、多分私にしかできない事だと思うから、仕方ないだろう」
そう言いつつ、おまえは俺の手を肩から外す。
おまえにしか、できない事?
「先日から、母上とばあやからラソンヌ先生に診てもらうよう勧められていたんだ。ずっとすっきりしなかったから……」
俺は、黙ったまま、続きを促した。
「単に疲れが溜まっているだけだろうと思っていたんだがな、どうやら違うらしい」
なぜだか、お前は俺から眼を逸らす。
「それで、今日。ちょうど休みを取っていたから、先生にお越しいただいた。朝から申し訳なかったが、父上が昼過ぎには領地の視察に出掛けるとなれば、今後の事についてのご指示をいただかなければならない時に困るからな」
おまえは、まるで隊員達に指示を出すかのような落ち着いた口調で客観的な説明をする。
わけが分からない会話。何やら一番重要な部分をはぐらかされている気がする。
「とにかく、明日にでも正式に国王陛下にご報告申し上げる」
それまでずっと無言だっただんな様が、断定口調でおっしゃった。
……もう、決まった事なのだな……?
知らずうなだれてしまう俺に奥様が、
「まあ! アンドレ、そんなにがっかりする事ではないわ。あなたはこれから今まで以上に忙しくなる事は違いないのですよ」
とてもにこやかにおっしゃる。すると、おばあちゃんまでもが被せるように、
「そうだよ、アンドレ。おまえの責任は今まで以上に重大だよ。きっと今までよりももっとオスカルさまの行動に眼を光らせなきゃならなくなるだろうからね」
「何しろ、本人に全く自覚がないのですものね……」
更に続ける奥様に、今度はオスカルがじろりと視線を送りながら、
「ですから、母上。何度も申し上げましたが、私が持ち合わせていない知識の中でそのように騒がれても、どうしようもありません」
何やら不思議な開き直り方だ。オスカルは続ける。
「しかし。ラソンヌ先生のお言いつけには素直に従う事にしたではありませんか」
「……オスカル」
奥様が、やさしい目線を愛娘に向け、
「そのように興奮してはタイキョウに良くありません」
えっ……!?
タイキョウ……って何だ!? 体協……滞京……退京……大橋……。
……えっ??? 胎教……って……。
ほ、本当か!? オスカル!!
今度は、おまえが俯く。ほんのりと頬を染めて……。
「オスカル」
俺は、もう一度、おまえの肩に手を載せた。
「本当に?」
今度は俺の手を振り払う事もなく、おまえは静かに頷いた。
「何となく自分で身体の調子がおかしいなと思い始めた頃から母上は気づいておられたらしい。勿論、ばあやも。だから『診察を受けろ』と人の顔を見る度に総攻撃だったんだ。でも。まさか、そんな事が私の身に降りかかって来るなんて、誰が思う?」
あ。また、わが愛する妻は妙な開き直りをする。
「それに……正直、おまえが言ったように軍を辞めるという事には抵抗があったから延ばし延ばばしにしていたんだ。でも、さすがに、な……」
そう言って、おまえはにっこりと微笑んだ。見慣れた笑顔のはずなのに、とても神聖な物に感じられてしまい、俺はドキドキした。
オスカルが、母になる。……俺が、父親になる……?
何だか、とっても照れ臭い。それに、正直実感なんて、ない。
そのうち、大きなお腹を抱えた妻を見るようになったら少しはおまえも俺も変わって来るのかもしれないけれど、たった今にでもおまえは馬を駆って出勤したそうな顔をしている。
あ。……でも、待てよ。
「オスカル! 軍を辞める必要はないんじゃないか?」
「アンドレ……」
だんな様が呆れたように俺を見た。
「無理に決まっているだろう。軍務に就く妊婦など、この国の歴史上存在しないぞ」
「あ、いえ。勿論、今は無理です。ですが、出産後はまた復帰する、というのはいかがでしょう? ちょっと長めにはなりますが、退くのではなく、長期の休みをいただき、落ち着いたら復帰するという方法は認められないでしょうか?」
一同が驚いた眼で俺を見つめる。だが、出産してしまえば、その後また軍務を続けるっていうのは可能なはずだ。そうだ!!
「何だったら、子供を連れて出仕しよう。こう言っては何だが王后陛下はご出産なさってからも王后としての職務を全うしておいでだ。むずがる子をあやしたりオムツを替える事なら俺にもできる。子守役もイヤってほどいるじゃないか」
俺は近い将来に訪れるであろう日々を想像した。
おまえは嬉しそうに、俺の首根っこにしがみついた。
「何て素晴らしい奴なんだ、おまえは! 出産の為の休暇や子を連れての出仕など、どこの誰が考えつくと言うのだ。本当に最高の夫だ!!」
手放しの称賛が、何だかとってもくすぐったい。照れた俺を正面から見つめ、しんみりとおまえが言った。
「……だが、良かった。今日に間に合って……」
本当に嬉しそうだ。
「誕生日おめでとう!! アンドレ。まだ眼には見えないけれど、この贈り物を受け取ってくれるか?」
おまえが満面の笑顔で、俺の頬にくちづけをくれた。
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その夜――。
ヴァンと同じ色のぶどうジュースをグラスに注いで祝杯を揚げた。大人の真似をして背伸びしていたガキの頃を思い出しながら、とても幸せだった。
夜具の準備も俺の役目だ。枕をパンパンとはたく俺の横に立ち、申し訳なさそうにおまえが呟いた。
「ラソンヌ先生が、もう少し体調が落ち着くまでは、そのぉ……夜の営みも控えめにと言っていた」
そんな真っ赤な顔をするんじゃない。大丈夫だ、分かっている。
何よりも神聖な女神に対して、あんな事できるわけないだろう? 寂しいけど……。
今夜はおまえを抱きしめて眠る事にしよう。
「おいで、オスカル……」
俺の腕の中にすっぽりと入り込んで、最初は興奮気味に色々と喋っていたが、やがて、おまえはスースーと柔らかい寝息を立て始めた。
しかし……。まるでスケベ根性丸出しで申し訳ないが……これは、拷問だ。
やさしい寝息を立てる愛妻。世界中の誰よりも愛しい。この身を呈して一生守り抜くと誓った、たったひとりの女性。
完全に寝入ってしまったオスカルを囲っていた手を離し、俺はそっと寝返りを打った。目線の先に、去年の誕生日におまえが贈ってくれた抱き枕がある。
仕方ない。今夜はこれを抱きしめて寝る事にしよう。本当は激しくおまえを抱きしめたいけど、何となく憚られる。その先の行為を我慢できる自信はないから、抱き枕を引き寄せる腕にギュッと力を込める。ちょっと情けないが……。
と、その時、俺の腹の上に何かが載っかった。イヤ。何か、ではない。おまえの踵だ。
うっ。痛いぞ、オスカル。だが、この痛みさえ、愛おしい。おまえの安眠を妨げたくなばっかりに俺は静かに、更に身体を寝台の端に寄せようとして……。
うわぁ。本当に情けない。二人で寝ても尚も広い寝台にも端っこがあるって事、忘れてた。
俺は背中から、思いっきり、床に落ちてしまった。
だが、ダメだ。睡魔には勝てない……。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
眠い。眠い……。何だか身体中が痛い。
ああ、だが、愛しい妻の声が聞こえる。
「おい、アンドレ。何だってこんな所で寝ている!? 起きろ!! 私は忙しいんだ。早く起きてくれ。珍しいな、おまえが朝寝坊なんて……。今日は、父上と母上も交えて、大事な話しがある。いつまでもこんな妙な所に寝ていないで起きて来てくれ」
えっ!?
≪FIN≫
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