021

「一ヶ月のごぶさたでした。司会の石置宏です」

さあ今日の一枚目は、

越すも涙

越さぬも涙

同じ涙なら

ここ河内越えで、流しましょう。

さあ書いてもらいましょう。

「河内越流涙慕情」

峯垣内 裏の谷磨崖仏

はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、
「峯垣内 裏の谷磨崖仏」に。

これまたアタック三回目にてご対面です。
二回とも近くまで来てたんですけどねと言う言葉が、
口から迸るぐらい近くに。

しかし前来た時には、
とてもとても入り口には見えませんでしたけど、
というより認識不可!やっぱ、冬場でしょう。

擽原のおばあちゃんも、
若いモンが居らんから手入れができませんと、

この入り口一帯は水田だったんですよね、むかしは。
それが今では、草ぼうぼう、藪ぼうぼうです。

磨崖地蔵立像 仏身45a 紀年なし。
そのむかしなら、東向きの地蔵様は、
河内越の道から眺めることができたかも知れませんね、たぶん。

誰を待つこと無く、ただ一人でこうして、
わたしだけを待っててくれたのかもしれません。

ほんとに年に数人しか、
訪れないかもしれませんねと思ったんですが、
数人でも訪れますかと?

山歩きマニアの人が下って前を通っても、
まずは気づく事は無いですね、
ちょっと木々の影になって、石仏の存在を知ってない限りは。

この道を先に進めば四叉路に出て、
北に針路をとれば千光寺へ行くはずだったんですが。

みなさんお待ちかねの、ここはドコ?
わたしは誰状態に突入とあいなりました。

結局出て来たのは、擽原トンネルの北口でした。
どこが千光寺やねん!と自ら突っ込んでも、
悲しや侘びしや。

まあここは心を入れ替えてと「これくらいにしといたるわぁ」と、
捨て台詞を吐き、この場速やかにバイバイしましょう。
河内越

みなさんは元山上駅から千光寺へ、
そして鳴川への「鳴川越」を歩いても、
擽原を通っての「河内越」の道を歩かれたでしょうか。

ここ擽原には、峯の腰痛地蔵屋形(峯の溝の地蔵)の中に、
船型地蔵立像 紀年なし 室町中期を下らぬとか。

擽原墓地に、山型十三板碑 享保四年(1719)
船型六地蔵立像 享保二年(1717)

美の谷北入口の地蔵屋形の中に、
岩谷不動座像 紀年なし がお出迎えでございます。
河内越流涙慕情

「鳴川越」に比べれば、
地味な「河内越」ではありますが、
庶民的な臭いが充ち満ちている道でもあります。

地図を見てもらえれば分かるように、
色んな道がわたしたちを「ニューフロンティア」に
導いてくれる事かと思います。

中には擽原トンネルの北口に出られる
奇特な人もおられますが(ほっとっいてんか!)

ほんの少しばかし前に、
この擽原にゴルフ場開発の話があったそうです。

しかしここまでに魔の手を伸ばすか
「人間」はと思った次第ではありますが、
幸いにも中止に。

その人間が、また戦争をおっぱじめたとか、
石仏の心は、何時になったら「人間」に届くんでしょうか。

涙を流す事が出来る者が、この世から消え去っても。
「石仏」は永遠とここ擽原の地から、
この風景を見て過ごすのでしょうか、
涙ひとつ流すことなく。


河内越のコンクリート道をバックにして、
新しくなった峯の腰痛地蔵屋形あれば、

崩壊寸前の美の谷北入口の地蔵屋形もあれば、
忘れ去られ様としてる磨崖地蔵立像もある、
擽原は行くたびに、模様変わりしております。

「ソトバの地蔵」様も最近こちらの方へ、
引っ越しされたそうです。

あなたは模様変わりしてますか?
矢田丘陵
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