「庄兵ヱ道」を見た!
魔境の生駒山系に
「庄兵ヱ道」この甘美なる言葉の響きに魅せられて、
どれくらいたったのでしょうか。

そして、はあ〜るば〜る来たぜ〜「函館」ではなっくって、「庄兵ヱ道」に、

お約束どうり探しました、ほんまに。
鳴川千光寺からの、入り口が見つからず、
どこやの〜と探すこと、またの名を「アタック三回目にて!」

「庄兵ヱ道」とは、
生駒の宝山寺から、鳴川千光寺間の信仰の道。

鬼取村の庄兵ヱさんが、
宝山寺の湛海律師より道を賜り、
清掃管理していたところから、
「庄兵ヱ道」の名で呼ばれるようになったと伝えられる、
往時は「ションべ道」とも呼ばれたそうです。

これでみなさんは何故に私が、
この甘美なる言葉の響きに魅せられたのか、
クッキリ、ハッキリと理解されたかと思います。

なお「庄兵ヱ道」は、半分位道が残っているようです。
千光寺からは山中歩き、暗峠道に出るまではどうにか残ってますが、
鬼取から小倉、そして門前町にかけては消滅してる様です。
今の自動車道の西の方あたりを北上し、
宝山寺へと続いていましたが。
鳴川墓

この「庄兵ヱ道」の入口に、
鳴川墓があるのはみなさんご存じですか。

ど派手な薬研彫り種子の、鎌倉中期の五輪塔が、
紀年なしのお迎え地蔵さん、
江戸初期の地蔵さんも彩り豊に迎えてくれます。

墓の頂上にあたるところに、
卒塔婆型板碑 天文二十年(1551)も。

起伏豊かな地形の中に、
むかしそのままのお墓で迎えてくれます。

七基の道標

「庄兵ヱ道」には千光寺から暗峠道へと出るまでに
七基の道標が導いてくれます。
まあこれが目当てなんですけど、

「一つ目」 は千光寺の入口を右へと道をとればすぐに右手に、
雑草に埋もれてる時もありますから注意してください。

この道を進めばすぐに 「二つ目」 が、このまま進めば鳴川墓へと、
左へと足を運んで畑道を行くと、右手になんとも怪しげな入口が!
はっきりキッパリこの道が 「庄兵ヱ道」 なんですが、
分かるわけありまへ〜ん。

私はこのまま進行して、畑が途切れる山中をだいぶ探したんですが、
それも二回にかけて、ファイット二発でしたね。

そんな、こんなで、この怪しげな入口を行くと、
当たりだったというわけです。
ちっちゃな木札があってもいいと思うんですが。

この道を行くと突き当たりに 「三つ目」 、
ここから右えと登りをしばらく行くと 「四つ目」 と、

もうひとがんばり登って、
いままでとはちがって大きめの 「五つ目」 となり、
ようやくここから道らしくなります。

ここは辻になってまして西へは僕らの広場、
東には元山上の駅へ、
そして北へ暗峠道へとゴーです。

う〜ん〜いいですね、誰も歩いてません道というムードがムンムンと漂って、
「六つ目」 が訪れる頃には、すっかり山中気分であります。

やがて最後の 「七つ目」 が、
ここから一気に下れば暗道なんですが、今はもう道になってませんし、
廃棄場が暗峠道の前にド〜ンと立ち塞がり、断念いたしました。
そいうわけで左へ回り道して暗峠道へ。
宝山寺へ

千光寺へ行かれる方は、
ほとんど鳴川峠へと出られるかと思いますが、
たまには「庄兵ヱ道」もいかがでしょうか。

このまま暗峠へ、
または庄兵ヱ殿の意志を?ついで
宝山寺へ行かれては、
矢田丘陵そして奈良、交野 、
木津への眺めもこれまたよかよかです。

宝山寺へ行かれたなら、
ぜひケーブル線梅屋敷の下に建つ
道標 「左鳴川元山上道」も忘れずに。

たぶんこの道の先に「庄兵ヱ道」が
続いていただろうと推測できます、
現在この道途切れております。
してその先には?


2000/04  記録から
あとがき

全国一千万の石仏ファンのみなさん今日は。

むかしのみなさんも、
お寺参りのはしごをよくしたんでしょうか。
宝山寺まで来たのなら元山上まで、
元山上まで来たのなら、
矢田寺まで足を伸ばしたかもしれませんね。

千光寺から暗峠道までは、
2qばかしの道程、
千光寺から金勝寺、
そして椣原墓地を通って矢田寺まで、
今でも通れます。もちろん松尾寺もです。

こうなるときりがありません、
松尾寺まで来たのなら斑鳩の寺をと。
江戸時代の旅人は、
一日平均40q歩いたそうです。

みなさんは何qまで行けますか?
私は一日だけならの40q行けるかもしれませんが、
連日は到底無理です、たぶん。
003
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参考文献

古代の残る信仰の文字 宝山寺への道
   今井正弘著

平群谷 平群町石造文化財
  平群町教育委員会
五輪塔
卒塔婆型板碑
お迎え地蔵