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西行法師-2 | ||
「み熊野ねっと」の「熊野の歌」からの転載 ◆ 西行法師 西行法師(1118〜1190)。俗名佐藤義清(のりきよ)。1118年、現在の和歌山県那賀郡打田町に生まれます。平将門の乱を平定した鎮守府将軍・俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、義清は俵藤太秀郷の九代の裔にあたります。同じく秀郷の流れをくむ奥州藤原氏とは遠縁になります。 母は監物源清経の女(むすめ)で、監物源清経は『梁塵秘抄口伝集』に見える「監物清経」や『蹴鞠口伝集』に見られる「清経」と同一人物と考えられており、とすると、今様や蹴鞠の名手の血が西行に受け継がれていったということになります。 18歳から北面の武士として鳥羽院に仕えるも(同僚には平清盛がいました。西行と清盛は同い年で友人だったのです)、1140年、23歳で突然、出家。法名は円位。西行と号しました。 しばらくは京内外に居住していましたが、陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅に出、それから数年の後、西行は高野山に入ります。以後30年ほど、高野山を拠点に諸国を遍歴。吉野にも赴き、熊野も訪れ、中国・四国にも旅し、各地で数々の歌を詠みました。 源平戦乱の時期は伊勢に疎開。1186年には再び陸奥へ。途中、鎌倉では将軍源頼朝と会談。 奥州藤原氏が平泉に滅んだ翌年、1190年、かねてからの願い通り、 願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃 (『山家集』上 春 77) 願わくは、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅した2月15日の頃に。 西行は、河内国南葛城の弘川寺にて2月16日に亡くなりました。 家集に『山家集』『聞書集』『残集』『山家心中集』など。勅撰和歌集では『詞花和歌集』に「読人しらず」として初出。『千載和歌集』に18首、西行没後15年(1205)に成った後鳥羽院(1180〜1239)勅撰の『新古今和歌集』では集中最多の94首が入集。 西行はおもしろくてしかも心もことに深く、有難くい出来がたきかたも共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人とおぼゆ。これによりて、おぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり。 そう後鳥羽上皇(院に在した23年の間に28回もの熊野御幸を行った。回数の多さは後白河院の34回に次いで2位)は西行に絶賛の声をあげています。 それでは、熊野に関連する歌をご紹介します。 ・『山家集』から15首。 1.熊野詣の道中、八上王子(やがみおうじ。現・八上神社。和歌山県西牟婁群上富田町)にて、 熊野へまいりけるに、八上の王子の花面白かりければ、社に書きつけける 待ち来つる八上の桜咲きにけり あらくおろすな みすの山風 (『山家集』上 春 98) 八上王子の辺りの桜の花に出会えるのを期待して来たが、ちょうど咲いていてくれていたよ。三栖山の風よ、強く吹いて花を散らさないでおくれ。 2.同じく上富田町の岩田にて、 夏、熊野へまいりけるに、岩田と申す所に涼みて、下向しける人につけて、京へ、西往上人の許へ遣はしける 松が根の岩田の岸の夕涼み 君があれなとおもほゆるかな (『山家集』下 雑 1077) 熊野詣を終えて帰る人に言付けて、終生の友人・西往上人に送った歌。 熊野詣の途中、岩田の岸で夕涼みをしていると、あなたが一緒にいたのならなあと思われることよ。 「松が根」は枕詞的用法。岩を起こす。 3〜4.熊野参詣道「伊勢路」の道中、新宮から伊勢に向かう途中に詠んだ歌。 新宮より伊勢の方へまかりけるに、みき島に舟の沙汰しける浦人の、黒き髪は一筋もなかりけるを呼び寄せて 年経たる浦の海士人(あまびと)言(こと)問はん 波をかづきて幾世過ぎにし (『山家集』下 雑 1397) 年を経た浦の海士に質問しよう、波の下に潜って幾年過ぎたのかと。 黒髪は過ぐると見えし白波をかづき果てたる身には知れ海士(あま) 海の中に潜り、頭の上を過ぎていったと思われる白波のために、黒髪もすっかり白髪になってしまった身と、知りなさい。海士よ。 (『山家集』下 雑 1398) 「みき島」はどこだかわからないのですが、三重県尾鷲市に三木里・三木崎などの地名があり、その辺りではないかとの説があります。舟の用意などを指図する、黒髪が一筋もない海士を呼び寄せて詠んだ歌。 5.熊野参詣道「伊勢路」の道中にて、 伊勢の磯のへぢの錦の島に、磯回(いそわ)の紅葉の散りけるを 波に敷く紅葉の色を洗ふゆゑに錦の島と言ふにやあるらん (『山家集』下 雑 1441) いそわ(水辺の内部に入り込んだ所)の波の上に散り敷く紅葉の色を洗うゆえに、錦の島と言うのであろうか。 錦(にしき)は三重県北牟婁郡東端の海岸。 6.本宮にて、 熊野へまいりけるに、七越の峯の月を見て詠みける たちのぼる月の辺りに雲消えて 光重ぬるななこしの峯 (『山家集』下 雑 1403) たちのぼった月のあたりには雲も消えて、光を重ねたように月が冴えわたっている七越の峯であることよ。 本宮町内に七越の峯はあります。和泉・河内・紀伊三国の国境にある七越山のことだという説もありますが、七越の峯は熊野本宮大社旧社地の東方すぐ近くにある山なので、夜、本宮に参拝した折に詠んだ歌だと取るのが素直な読み方だと私は思っています。 本宮では、いったん昼間、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づいた後、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。 7.那智にて那智の大滝を見て、 月照滝 雲消ゆる那智のたかねに月たけて光をぬける滝の白糸 (『山家集』上 秋 382) 雲が消えた那智の高嶺に月が天高く上って、冴えわたっている。その月の光を滝の白糸が貫いていることだ。 8.この大滝(一の滝)の上流に「二の滝」と呼ばれる滝があります。この二の滝の近くに花山上皇は修行のため庵を結びました。西行が那智を訪れる百数十年前のことです。その庵の跡を西行は訪ねます。 那智に籠りて滝に入堂し侍りけるに、この上に一二(いち・に)の滝おはします。それへまいるなりと申す常住の僧の侍りけるに、具してまいりけり。花や咲きぬらんとたづねまほしかりける折節にて、たよりある心地して分けまいりたり。二の滝のもとへまいりつきたる。如意輪の滝となん申すと聞きて、拝みければ、まことに少しうち傾(かたぶ)きたるやうに流れ下りて、尊く覚えけり。花山院の御庵室の跡の侍りける前に、年旧(ふ)りたりける桜の木の侍りけるを見て、「すみかとすれば」と詠ませ給ひけんこと思ひ出でられて 木(こ)のもとにすみけるあとを見つるかな 那智の高嶺の花を尋ねて (『山家集』中 雑 852) 那智の高嶺の桜の花を尋ねて、桜の木の下に花山院が住処とされ、心を澄まされた跡を見たことだ。 9〜10.那智では滝行もしたようです。熊野の霊験あらたかさを詠んだ歌2首。 熊野二首 み熊野のむなしきことはあらじかし むしたれいたの運ぶ歩みは (『山家集』下 雑(百首) 1529) 神聖な熊野三山は、詣でて虚しいことはあるまいよ。むしたれいた(後述)の運ぶ足を見ているとそう思う。 あらたなる熊野詣のしるしをば 氷の垢離(こり)に得べきなりけり (『山家集』下 雑(百首) 1530) 霊験あらたかな熊野詣の御利益を那智の滝の氷で垢離をとって、得ることができるのだ。 この熊野二首は、西行が詠んだ熊野の歌のなかで最も重要な歌であると考えることができます。この二首の歌には、中世の熊野詣の有り様が詠み込まれています。 まず一首め。 キーワードは「むしたれいた」。 「むしたれいた」とは何かというと、「むし」を垂らした「いた」のことです。 「むし」とは、女性が市女笠の周りに垂らして外から顔を見透かされるのを防ぐ垂れ絹のことで、中世、熊野詣をする女性は、むしを垂らした市女笠をかぶり、顔を隠しました。 熊野は浄土の地とみなされ、熊野を詣でるには「葬送の作法」をもって行なわれました。 女性参詣者がかぶった市女笠は、伊勢では葬送の際に女性がかぶったもので、死門への旅とされた熊野詣にふさわしい葬送の作法に則った装束でした。 むしを垂らして顔を隠したことについては、虫よけという実際的な役割もあったと思われますが、信仰上の意味もありました。「むしたれ」には、それで外界を遮断するということから、浄土に生まれ変わるために、娑婆世界への道を遮断するという意味が込められていました。 「いた」は、熊野を詣でる女性のことを表わしています。 熊野を詣でる女性参詣者は自らを「いた」と名のりました。 熊野詣の道中、男は「サヲ」、女は「イタ」、尼は「ヒツソキ or ソキ」、法師は「ソリ」と名のらされます。それは、新しい名を名のることで、俗世間での名や身分、それまでの自分を捨て、まっさらの一人の神子・仏子として熊野権現に向き合うためです。 「サヲ」は男巫を意味する言葉で、男が「サヲ」と名のることは、熊野詣の道中、男は熊野権現に仕える神子であることを意味します。 「イタ」は巫女で、女が「イタ」と名のることは、熊野詣の道中、女は熊野権現に仕える巫女であることを意味します(そういわれてみれば、「イタコ」という言葉も思い浮かびます)。 法師の「ソリ」はその剃髪した頭からそう名のらせたのでしょう。「ヒツソキ or ソキ」は、尼のことを古くは「ソキ尼」といったので、そこから来たものと思われます。 熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら、女性の参詣を禁じませんでした。禁じないどころか積極的に受け入れていました。熊野を詣でる女性はすべてみな等しく「いた」、熊野権現の巫女でした。 熊野権現は、当時不浄とされていた女性の生理でさえ気にしませんでした。 熊野は女性の参詣を広く受け入れました。これは特筆すべきことです。熊野ほどに女性の参詣を歓迎した社寺は他にありません。 女性参詣者を「いた」と名のらせる。女性参詣者を熊野権現の巫女と名のらせる。そこには、女性の参詣を広く受け入れた熊野の自負のようなものが感じられます。 熊野は、男であろうが女であろうが、老人であろうが若者であろうが、身分が高かろうが低かろうが、出家していようが在家であろうが、救いを求めてきた者に対しては、誰にでも手を差し伸べるのだと。 熊野は、当時、忌み嫌われ、非人とされたハンセン病者をも受け入れました。熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだったのです。 二首め。 キーワードは「垢離」。 霊験あらたかな熊野詣の御利益を垢離をとって得ることができるのだ、と西行は詠みました。 垢離とは、冷水を浴びて、身と心を清めること。 熊野詣は精進潔斎の道でした。 熊野は辺境の山岳地帯にあり、参詣には道案内人が必要とされ、それを山伏がつとめました。この道案内人を先達(せんだつ)と呼びましたが、先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行いました。 先達の指導のもと、参詣者たちは日々の精進潔斎に励みました。 熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだとされましたが、しかし、それも参詣者の日々の精進の上に与えられるものだったのです。 道中、所々で祓(はらえ)をし、海辺や川辺では垢離を掻き、身心を清め、王子社では幣を奉り、経供養などを行いました。 また、妄語や綺語、悪口、二枚舌など道理に背く言葉は厳禁で、忌詞を用いることにより妄語などを戒めました。 熊野の忌詞は、30ほどあったようです。少々、例をあげると、 ●仏→サトリ ●経→アヤマキ ●寺→ハホウ ●堂→ハチス ●香炉→シホカマ ●怒り→ナタム ●打擲→ナヲス ●病→クモリ ●血→アセ ●啼く→カンスル ●死→カネニナル ●葬→ヲクル ●卒塔婆→ツノキ ●墓→コケムシ ●米→ハララ ●男→サヲ ●女→イタ ●尼→ヒツソキ or ソキ ●法師→ソキ など。 熊野詣の道をゆく者はこのような言葉の言い換えを義務づけられました。そのため、道者は自分の口から出る言葉に注意を払わねばならず、自然、妄語も慎むようになったものと考えられます。 先ほど述べた「サヲ」「イタ」「ヒツソキ or ソキ」「ソリ」の4語も忌詞なのでした。 以上のように、熊野二首の歌から、 ● 熊野が女性の参詣者を積極的に広く受け入れたこと。 ● 熊野詣が葬送の作法をもって行われたこと。 ● 熊野詣が浄土への旅であること。 ● 熊野詣をする者はすべて等しく熊野権現に仕える神子・仏子であること。 ● 熊野権現の利生は無差別に与えられること。 ● 熊野詣が精進潔斎を大事とすること。 ● 精進潔斎の上に熊野権現の利生が与えられること。 などを読みとることができるのです。 さて、『山家集』に戻って、 11.那智から本宮へ戻る道中では、 雲取や志古(しこ)の山路はさておきて 小口(をぐち)が原のさびしからぬか 雲取山の志古の山路がさびしいのはさておいて、小口が原がさびしくないことがあろうか。 (『山家集』下 雑 977) 志古の山路とは、「小雲取越え」の途中、如法山から東に方向を変え、萬歳(ばんぜ)峠を越え、熊野川町志古に出る道「番西道」のこと。今の「小雲取越え」では「番西道」を使いませんが、「番西道」を使うルートが那智から本宮への本道だったらしいです。後鳥羽上皇の熊野御幸のルートも「番西道」ルートで本宮に戻ったとか。『続風土記』によると、今の小雲取越えは後世に開かれた道だということです。 小口(こぐち)は大雲取を越えて下りてきたところにある熊野川町の集落。昔は「をぐち」といったようですね。小口が原は、小口辺りの河原のことらしいです。 12.万葉集の時代から詠まれている「み熊野の浜木綿」の歌も詠んでいます。 み熊野の浜木綿生ふるうらさびて 人なみなみに年ぞ重なる (『山家集』中 雑 1023) み熊野の浜木綿(はまゆう)が生えている浦がさびしいように私の心もさびしく、浜木綿の葉が重なるように私も年だけは人並みに重ねるものだ。 「うら」は「浦」と「心」を掛ける。 「なみ」は「波」と「並み」を掛け、「波」は「浦」の縁語。 「浜木綿」と「重ねる」は縁語。 13.白良浜(しららはま。現和歌山県西牟婁郡白浜町)が登場する歌。内裏で催された貝合せ(左右に分かれ、貝の優劣を歌を添えて競う遊び)のために女房に代わって作った歌のひとつ。 波寄する白良の浜の烏貝(からすがひ) 拾ひやすくも思ほゆるかな (『山家集』下 雑 1196) 波が寄せる白良浜の烏貝は拾いやすく思われることよ。 白良浜はその名の通り白砂の浜。 烏貝は色が黒く形の大きな淡水性の二枚貝。 14.もう1首、白良浜が登場する歌。「月十首」のひとつ。 はなれたる白良の浜の沖の石をくだかで洗ふ月の白波 (『山家集』下 雑(百首) 1476) 遠く離れた白良の浜の沖の石を砕くことなく洗うのは、月の光に輝く白波であることだ。 15.熊野で詠んだ歌ではありませんが、とりあえず。 承安元年六月ついたちの日、院、熊野へまい(ゐ)らせを(お)はしましけるついでに、住吉へ御幸ありけり。修行しまはりて、二日、かの社にまい(ゐ)り侍(はべり)しに、住の江の釣(つり)殿あたらしく仕立てられたり。後三条のみゆき、神思ひいで給(たまふ)らんとおぼえて、書きつけ侍し 絶えたりし君がみゆきを待ちつけて 神いかばかりうれしかるらん 御三条院以来絶えていた帝の御幸を待ち迎えて、住吉の神もどんなに嬉しく思っていることだろう。 (雑下 1218) 『山家集』には熊野絡みの歌は私が見つけられた限りでは以上の15首。 もしかしたら見落としがあるのかもしれません。もし他にありましたら、お知らせください。メールはこちら。 ・『新古今和歌集』から1首。 1.『新古今和歌集』中最多の94首が入集している西行ですが、「熊野」が登場する歌は1首。 寂蓮、人々勧めて百首歌よませ侍(はべり)けるに、いなび侍(はべり)て熊野に詣でける道にて、夢に、なにごとも衰へゆけど、この道こそ世の末に変(かは)らぬものはあれ、なを〈ほ〉この歌よむべきよし、別当湛快(たんかい)、三位俊成に申(まうす)と見侍て、おどろきながらこの歌をいそぎよみ出(い)だしてつかはしける奥に書き付け侍ける 末の世もこのなさけのみ変(かは)らずと見し夢なくはよそに聞かまし (巻第十八 雑歌下 1844) 末法の世でもこの「もののあわれ」の道だけは変わらないと見た夢がなければ、百首の歌の勧めも他人事のように聞いていたことでしょう。 寂蓮が人々に勧めて百首詠ませておりましたのに、断って熊野に詣でたその道中に、夢で、「何事も衰えゆくが、歌の道は世の末にも変わらないものである。ぜひこの百首を詠みなさい」ということを熊野別当湛快が三位俊成(西行の親友)に申し上げるのを見て、驚きながら急ぎ詠んだ歌です。 |
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