晴れた空が何処までも広がり、新緑が目に眩しい。時折吹く微風が道端の草花や木々の葉を遊ばせる。
柔らかい陽射しの下、惣次郎は剣術道具を肩に担ぎ、甲州街道を西へと向かっていた。試衛館の塾頭である彼は、時折こうして他の道場に出向いて稽古をつける。今日の目的地は小野路村の小島鹿之助の道場だ。幾度か訪れた事のある場所の為、道に迷う心配はなかった。
江戸を出てから随分と経つ。四月の陽気は歩き通しの体には些か暑く感じられた。
ふと隣を見ると、端整な白皙が陽射しなど気にもせずに、平然と真直ぐに前を向いている。惣次郎と同じく肩に剣術道具を担いだ彼は、漆黒の髪を乱しもせず、汗の一つもかいていない。
不意に闇色の双眸が振り向いた。惣次郎と視線が合うと、彼は口許を綻ばせる。
「如何した?」
「綺麗だなぁって」
素直に述べると、彼は空を仰ぎ見た。
「ああ、雲一つない見事な空だ」
惣次郎はくすりと笑う。すると彼は首を傾げて幾らか背の高い惣次郎を見上げてきた。
「私が言っているのは土方さんの事ですよ」
その言葉に彼が目を瞠る。そして口を尖らせ、前に向き直った。
「餓鬼が何を言ってやがる。男に言う台詞じゃねぇよ」
惣次郎にはそんな彼が可愛らしく感じる。年が離れているとは到底思えない。
「私はもう十七ですよ。あなたは未だに子供扱いしますけどね」
「元服してねぇうちは、餓鬼だ」
二、三年前までは餓鬼だと言われるとムキになって反論していたが、最早気にならなくなっていた。如何言ってみても九つの年の差がある事に変わりはなく、否定した所でそれが縮まるわけでもない。
「そりゃ、元服はしていませんけどね」
惣次郎は彼の耳元に唇を寄せた。
「でも、あなたはその餓鬼に抱かれているでしょう?」
途端に前を向いたままの彼の頬が朱に染まる。彼は俯いて「煩ぇ」と言うと、歩みを速めた。
傍目には怒っているように見える彼が、単に照れているだけだと知っている。惣次郎は笑みを刷くと、先を行く彼を追った。
天然理心流の免許皆伝となってから、惣次郎は出稽古に赴く機会が増えた。それまでは勇の付き添いで日野の佐藤家へ行く事はあったが、免許を納めてからは一人で武州へ出掛けるようになった。
しかし、今回は如何いうわけか歳三が付添人として同行している。
小野路への出稽古は昨日、勇から申し渡された。その時、偶々歳三が同じ部屋で何をするでもなく横になっていた。
「歳」
勇が呆れたように、彼を呼ぶ。歳三は面倒臭そうに彼を見遣った。
「ついでだから、おめぇも惣次郎に着いて小島さんの所へ行って来い。此処でごろごろしているより、余程良い稽古になるぞ」
「稽古なら此処でだって出来るじゃねぇか」
緩慢な動作で起き上がり胡座をかいて、歳三は勇を向いた。勇はにやりと笑う。
「此処では出来ねぇ経験をさせてやろうって言ってるんだ。惣次郎を手伝っておめぇも門人に稽古をつけてやれ」
歳三は目を見開き、勇を凝視した。彼は未だ教わる立場にあり、人に稽古などつけたことなどない。しかも天然理心流の型に嵌っていない雑多剣術だと、日頃口煩く言われている。
それでも構わないのかと問う。
「なぁに、主に稽古をつけるのは惣次郎だから大丈夫だろう」
頼んだぞ、と付け加え、勇は歳三と惣次郎を残して部屋を出て行った。
閉じられた襖を眺め、歳三は小さく息を吐く。
「参ったな」
呟くと、惣次郎が傍へ寄ってきた。
「若先生が土方さんの腕を認めてくれたって事ですよ」
「そうかねぇ」
歳三は胡座の上に肘をつき、そこに顎をのせる。
「そうですよ。それにね」
惣次郎は掌をそっと歳三の頬に添えて囁いた。
「二人きりで出掛けられるなんて、嬉しくて仕方がない」
「莫迦」
歳三は顔を背ける。ややあって目線だけで惣次郎を見た彼は、心情を表すかのように微笑んだ。
武州に入り、随分と進んでから甲州街道を外れて南への道を取る。
街道に較べると人通りの少なくなった通りを歩いて行くと、やがてせせらぎが聴こえ、多摩川に掛かる橋に差し掛かった。それを渡りきると、惣次郎は歳三の袖を引き、道を外れて川の土手を歩こうと誘った。どの道を行こうが、小野路に着く時間はたいして変わらない。どうせなら景色が良い道を行く方が楽しかろう、と歳三はその提案に頷いた。
試衛館を出たのは日の出前だったが、陽は既に真上から西へと傾いていた。地に落ちる陽射しが未だ弛まないところから、刻限はだいたい未二つか三つ位だろう。
多摩川の土手は二人の他に通行人はいない。その為か、歳三は先程よりも惣次郎との距離を縮めた。袖が触れ合いそうな程に寄り添い、川の流れを耳にしつつ四方山話をしながら歩いていく。
こうして二人だけで遠出するのは初めての事で、余りの嬉しさに道中の疲労すら感じない。
ふと歳三は空を仰ぎ見た。遮る物が何一つ無い為、視界一杯に青空が映る。
「流石にこれだけ歩き通しだと、暑いな」
惣次郎も同じように空を仰いだ。
「全くだ」
彼は歳三に視線を移すと、笑みを浮かべる。
「ちょっと道草を食っていきましょうか」
歳三がその言葉の意味を問おうとする間もなく、惣次郎は青草や杉菜の生える土手を駆け下りた。河原に降り立つや草鞋を脱ぎ捨てて袴を捲り上げ、水飛沫を上げて川に脚を踏み入れる。
彼は未だ土手の上にいる歳三を向き、手を振ってみせた。
「冷たくて気持ちいいですよ。土方さんも来て下さいよ」
歳三は呆れた様子で溜息を吐き、ゆっくりと土手を降りた。惣次郎は何が楽しいのか、魚を追いかけている。水の中を自在に行き来する魚に到底敵わないと判っていながらも、それを追う姿に、歳三は笑みをこぼした。
「餓鬼」
惣次郎は水面から目を外し、無邪気な笑顔を向ける。そして掌を水につけると、歳三に向かって勢いよく掬い上げた。飛沫は陽の光を反射させながら歳三を濡らす。
「この薄ら莫迦、何しやがる」
顔に掛かった雫を袖で拭い、歳三は然も可笑しそうな表情を浮かべる惣次郎を睨みつけた。
「土方さんも入りましょうよ」
「俺はいい」
袴を払うと川沿いの木立の影に身を寄せ、そこに座り込む。川に入らずとも、火照った体を冷やすにはそこで充分だ。
惣次郎は口を尖らせるが、直ぐにまた水と戯れだした。歳三は膝を立てた上に頬杖をつき、惣次郎を眺める。一人遊ぶその姿は、背だけは高いものの全くの子供だ。時折覗かせる大人びた表情がまるで嘘のように思える。
一頻り遊び、惣次郎は河原の砂利に上がった。彼は草鞋を手に取ると、歳三の横に腰をおろす。
「もう良いのか?」
「充分涼んだ」
惣次郎は濡れたままの脚を伸ばした。木漏れ日が浅黒い素足に斑模様を浮かせる。それを暫し眺めてから視線を歳三に向ると、彼は頬杖をついたままの格好で惣次郎を見ていた。
「惚れる要素が見当たらねぇな」
餓鬼そのものじゃねぇか、とぼやくと惣次郎は笑みを浮かべた。
「でも、惚れているでしょう?」
そう言って細めた瞳は、包み込むような柔らかさを孕んでいる。
「おめぇだって、そうだろうが」
「ええ、好きですよ」
それこそ言葉では言い表せないほど愛しい、と紡いだ口が歳三の唇を掠めた。歳三はさっと身を引き、顔を背ける。
「人に見られる」
「見えませんよ。木立が遮ってくれる」
耳元で囁き髪を梳くと、歳三はゆるりと惣次郎を向いた。視線が交差すると、彼は笑みを刷き目を閉じる。その僅かに朱に染まった頬に手を添え、惣次郎は再び歳三に顔を近付けた。
薄く開いた唇にそっと触れる。触れて舐め、また吸う。そして歯列の間から舌を指し入れ、歳三のそれに絡ませた。
「…ん……」
鼻に掛かった声を漏らし、歳三は惣次郎の後頭部に腕を回す。舌を絡ませたまま角度を変えて幾度も口付けた。
閉じた瞼の中で感じられるものは、互いの体温と唇の感触。木陰の涼しさも川のせせらぎも彼等には届いていない。
漸うに唇を離すと唾液が糸を引き、ふつりと切れた。
惣次郎の指が濡れた白い顎を拭うと、歳三は視線を反らせた。
「草鞋を履け。いつまでも道草食ってる場合じゃねぇよ」
そう言って立ち上がったものの、膝に力が入りきらずによろめいてしまう。そんな歳三を見て、惣次郎が小さく噴出した。
「笑うな」
憮然と言う顔が真っ赤だ。
惣次郎は声をあげて笑いながら草鞋を履き、「行きましょうか」と歳三の手を取る。握られた手を強張らせた彼に、惣次郎は柔らかい眼差しを向けた。
「人通りがないから、誰にも見咎められませんよ」
歳三は言い返さずに剣術道具を担ぐと、惣次郎に手を引かれるまま土手を上がった。登りきって見渡したところ、相変わらず人通りが無い。歳三は肩の力を抜き、惣次郎の手に己の指を絡めた。瞠目して見下ろしてきた惣次郎と敢えて目を合わせずに
「早く行かねぇと日が暮れちまうぞ」
と言い、西に向かって足を踏み出す。
惣次郎は嬉しげに微笑むと、腕を引くように先に行こうとする歳三に歩調を合わせた。
「帰りにもまたこの道を歩きましょうか」
「考えておくよ」
振り向きもせずに答えたその表情は、承諾するかの如く笑みを浮かべていた。
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