相即不離


「やられた」
 風呂から出てきた土方歳三はそう呟いた。
 脱衣所の棚に置いてあった筈の単と下帯が無い。辺りを見回してもそれらしい物は見当たらない。床に置かれた盥には居候連中の道着や袴が無造作に放り込まれていたが、歳三が持ってきた単は無かった。
 入浴中に誰かがやってきてかっぱらって行ったとしか考えられない。しかし人が入ってきた気配などしなかった。
「あいつか…」
 気配を感じさせずに此処に入ってくるような者は一人しか思い浮かばない。だが単盗人が判った所で彼の着替えが無い事に変わりはなかった。夜中と謂えども流石に裸で出るわけにもいかず、歳三は盥の中から悪趣味な薄紫の衣を取り出し、汗と埃の臭いが染み付いたそれを身に纏う。折角風呂に入ったというのに台無しだ。
「あの糞餓鬼」
 今頃、歳三が困惑している様を想像して可笑しそうに笑っているのだろう。
 腹が立つ。



 闇の落ちた軒廊を月明かりだけを頼りに、居候達の溜まり場の大部屋へと向かう。
 そろそろ皆が就寝する刻限だ。兎に角早く部屋に戻り、この汚れた衣を着替えたい。
 不意に真横の空き部屋から物音がし、腕を掴まれたかと思うと歳三は室内に引き摺り込まれた。勢いでぶつかった人物に抱き込まれた途端、襖が閉められる。
「嫌だなぁ土方さん。それは私の着物ですよ。幾ら私に惚れているからって、そんな汚れた物を着なくてもいいじゃないですか」
 耳元で囁かれ、歳三は顔を上げて声の主を睨み付けた。
「やっぱりてめぇか、惣次郎」
 何の事ですか、と沖田惣次郎が笑みを浮かべて歳三を見つめている。
「俺の単を何処へやった」
「言い掛かりを付けてまで、それが着たかったんですか」
「この薄ら馬鹿が」
 吐き捨てるように言い、歳三は惣次郎から身体を離そうとした。が、惣次郎は離そうとしない。身を捩れば益々強く抱き締めてくる。
「離せ、俺はさっさと着替えて寝たいんだ」
 惣次郎はそれを無視し、背に回していた手を下へずらした。その手が意地悪くも腰を撫で、その下の肉を掴む。歳三の肩がびくっと撥ねた。
「あれ」と、惣次郎は楽しそうに言う「下帯を着けてないんだ」
「てめぇが持ち去ったから着けられなかっただけだ」
 惣次郎は否定も肯定もせずに笑みを浮かべ、歳三の内股を撫で上げる。
「止せ」
 凄味を利かせて言うが、惣次郎は「ふうん」と頷き、衣の前を割ってその中に手を滑り込ませ、反応し掛けた物を握り込む。突然与えられた刺激に、歳三は小さく叫んだ。
「止めてもいいの?此処は満更でもないようだけど?」
「止めろと、言っただろう」
 睨み付ける瞳に不敵な笑みを返し、惣次郎は衣の中に差し入れた手を上下に動かし、歳三の耳朶に歯を立てた。
「止めろ」
 そう言いつつも、逃れようと突っ張っていた腕は惣次郎の衣を掴み、胸元に朱に染まった顔を埋めている。
「本当に止めてもいいの?」
 問われて見上げてきた瞳は最早欲に濡れ、先程迄の険はない。
「惣次郎」
 呟いた唇に口付けると、その後はなし崩しに互いを貪りあった。



 歳三は目を覚ました。昨夜は惣次郎と情を交わし、そのまま眠ってしまったようだ。辺りは既に明るく、惣次郎の姿も無く、しかし情交の後は片付けられていた。
 躰を起こした歳三は部屋の隅に置かれた単――昨夜散々探したそれを見つけて、脱力するしかなかった。矢張り、惣次郎が勝手に持ち去っていたのだ。
「一体、如何いうつもりだ」
 歳三は単を取り上げ、それに袖を通して部屋を出る。
 惣次郎の悪戯は今に始まった事ではなく、もう随分と長い間続いている。彼の悪戯はどれも些細で、例えば草履を隠されたり、食事の時に好物の沢庵を横から伸びてきた箸に奪われたり、剣術道具の中に塵を詰め込まれたり、と言った類いのものばかりである。歳三自身に危害を加えるわけでも、彼の持ち物を破壊するわけでもないが、積もり重なれば腹も立ってくる。彼はこの状況にいい加減、辟易していた。
 しかし歳三には惣次郎を突き放す事が出来ない。惣次郎と恋仲になっているのだ。
 正直な所、如何して惣次郎に惚れたのかは判らない。惣次郎は身体がでかいだけで中身は全く子供のままだし、取り分けて顔が良いわけでもない。そもそも歳三は衆道の気など全くなく、どちらかと云えば女好きだ。それでもあの年下の糞餓鬼に惚れ、相手も歳三を欲し、そして今に至っている。
 ふらつく脚を叱咤しながら、道場ではなく居間へと向かう。道場へ行ったところで朝稽古は終わっているに違いないのだ。寝坊したのは惣次郎が起こして呉れなかった所為だと恨んでみるが、この体調で朝から稽古が出来る筈がない。しかし躰がだるいのは惣次郎の所為だ。
 歳三は大袈裟に溜息を吐いた。


 居間に着くと既に朝餉の仕度が整い、居候達が各々の膳の前に腰を降ろしているところだった。
「おお、歳。朝帰りか」
 気だるい表情で居間に入ってきた歳三を見て、近藤勇がにやりと笑った。歳三は「まぁな」と御座なりに返答し、自分の膳を探すが見当たらない。朝餉の仕度は内弟子の惣次郎の役目故、歳三は彼に自分の朝食は如何したのかと問う。
「土方さんの姿が見当たらなかったので、朝餉は要らないものと思って仕度していませんよ」
 返ってきた言葉に舌打ちし、歳三は仕方なしに厨へ向かう。茶碗に飯を盛り沢庵を大量に添えて居間に戻り、敢えて惣次郎を避けて勇の隣りに座った。惣次郎が寂しげな眼差しを向けてきたが、それを無視して箸をとる。
 黄色の目立つ膳を見て勇が微かに吹いた。沢庵が好物だとは知っているが、何も山盛りにする事もなかろう。
「歳よ。朝帰りの罰として沢庵は没収な」
 言いながら勇は、歳三の膳に箸を伸ばしてくる。
「冗談じゃねぇよ」
 歳三がそれを阻止しようとした時
「若先生」
と、鋭い声がとんできた。
 その声に含まれた怒りの色に勇と歳三だけでなく、食事中の居候全員が声の主こと惣次郎を見る。
「若先生の御膳にも漬物は有るでしょう?足りないなら厨にたくさんありますよ」
「ああ、そうだな」と勇は箸を退いた。歳三は惣次郎を解せない思いで見つめる。
 惣次郎は平気で歳三に嫌がらせを仕掛けてくるのに、他人がそれをするのを殊更嫌う。何を考えているのか判らない。
 優れぬ気分のまま飯を掻き込む。美味い筈の沢庵が味気なく感じられた。



 朝食後、歳三は件の空き部屋に行き、昨夜仕方なしに身に着けた悪趣味な薄紫の衣を脱衣所へ持っていった。惣次郎が洗濯する前に此れを盥に放り込んでおかなければ、自分で洗う羽目に陥りかねない。
 しかし既に脱衣所から盥とその中に入っていた洗濯物は無くなっていた。盥の有った場所には歳三が昨日着ていた衣が無造作に放り出されている。
「あの餓鬼」
 歳三は衣を掴むと、怒りも露わに床を踏み鳴らしながら井戸端へ行く。
「惣次郎」
 名を呼ばれ、井戸端で洗濯物を濯いでいた惣次郎が振り向いた。
「何ですか?」
「おめぇ、此れは如何いう事だ?」
 歳三が差し出した道着と袴を眺め、惣次郎は業とらしく首を傾げた。
「土方さんの着物ですねぇ。もう他の衣類は濯いでしまったのでご自分で洗って下さい」
 飄々と答える様に苛立ちが募る。
「何故、俺の分だけ洗濯しない?」
「忘れていたんですよ」
「巫山戯るな」
 歳三は裸足のまま庭に降りて惣次郎の傍へ行き、盥を力一杯に蹴り上げた。その勢いで盥は傾き、中の洗濯物と水が惣次郎を濡らす。惣次郎は驚いて目を瞠った。
「如何いうつもりか知らねぇが、うんざりだ。おめぇとはもう付き合ってらんねぇよ」
 そして惣次郎に背を向け、その場から走り去る。
「土方さん」
 惣次郎の叫び声が聴こえたが無視し、母屋にいた勇に「日野へ帰る」とだけ言い、剣術道具を持って試衛館を飛び出した。



 健脚故に歳三は日が暮れる頃には日野宿に着いていた。
 彼は当然のように姉ののぶの嫁ぎ先の佐藤彦五郎宅に転がり込んだ。夫妻の方も慣れた物で、不貞腐れた面持ちの歳三を、彼是詮索する事なく迎え入れた。
 歳三は夕餉をとり、甥の遊び相手をしてから、以前に自室として使っていた部屋へ入る。勝手知ったる部屋の納戸から蒲団を引っ張り出して敷き、その上に寝転がった。江戸から歩いてきた為に疲れている筈だが、眠気は訪れない。目を閉じると、思い出したくない事が脳裏に蘇り、余計に眠れない。
 試衛館を出る直前に見た惣次郎の表情、最後に耳にした叫び声。散々に嫌がらせをしておいて、泣きそうな瞳を向け、悲痛な声で名を呼んでいた。
「糞餓鬼が」
 呟いて歳三は寝返りをうった。
 惣次郎は本当に歳三の事が好きなのだろうか。都合よく性欲処理に使われていただけではないだろうか。
「冗談じゃねぇ」
 九つも年下の子供に振り回されて、女みたいに抱かれて、それでも己は惣次郎が好きだと云えるのだろうか。
 年の割に痩せて小さな子供だった。
 歳三が試衛館に顔を出すと、嬉しそうに駆け寄ってくる子供だった。
 いつの間にか声が変わり背も伸びて、見上げてきていた視線が大人びた真摯なものに変わった。肩幅も胸板も広くなり、逞しい腕で歳三を抱くようになった。
「嫌いだ」
 自身に思い込ませるように口にする。
「ああ、嫌いだとも」
 そう思い込まないと、切なさと苦しさでおかしくなりそうだった。
 再び寝返りをうった時、からりと障子が開いて微かな明かりが部屋に差し込んだ。
「歳三、起きている?」
「のぶ姉」
 姉は障子から顔を覗かせた。歳三は身を起こし、如何したのかと問う。
「惣次郎さんが見えているんだけど」
 惣次郎の名を耳にした途端、歳三の顔が強張った。
「こんな夜更けに、何を考えてやがる」
「あんたに用があるみたいよ。行ってあげなさい」
 歳三は暫し思案していたが、小さく舌打ちして部屋を出る。全く何を考えているのか判らない。
 就寝すると言った姉と別れて玄関に向かう。頼りなげに立っていた惣次郎は、歳三の姿を認めると僅かに笑みを浮かべた。
「こんな刻限に来るとはな、この常識なし」
 冷たく言い放つと笑みを刷いていた表情が歪む。胸に痛みを覚えて、歳三は惣次郎に背を向けた。
「帰れ」
「土方さん」
 惣次郎は歳三の腕を掴んだ。
「試衛館に帰りましょうよ」
 歳三は答えずに掴まれた腕を振り解こうとする。しかし惣次郎は離そうとしない。
「土方さん」
「てめぇ一人で帰りやがれ。俺は暫くこっちに居る」
「如何して」
「如何して、だと?言ったじゃねぇか、てめぇにゃ愛想が尽きた。判ったら手を離しやがれ」
 それでも惣次郎は手を離そうとしない。歳三は眉間に皺を寄せて不機嫌さを隠そうともせずに惣次郎の方を向く。そして目を瞠った。
 惣次郎は唇を噛み締めて大粒の涙を流していた。
「私の事が嫌いになったんですか?」
「自分のやった事を棚に上げて何を言う」
「私は」惣次郎は空いている方の手で目元を拭う「土方さんが好きだ」
「あれだけ嫌がらせをされて、信じられると思うか?」
 擦った所為で赤くなった目で、惣次郎は真直ぐに歳三を見つめた。
「好きなんだ。堪らなく好きなんだ。だから土方さんが私を好きだと言ってくれた事が嬉しくて、調子に乗ってしまった。土方さんが私にとって特別な人なんだと判って欲しくて、だから他の人が同じ事をするのが許せなくて」
 未だ涙が零れ落ちる瞳に、腕を掴む骨ばった手に、歳三は胸を押さえる。
「ごめんなさい」
 内心を見透かすような澄んだ眼差しから逃れるように、歳三は目を伏せる。
「てめぇにゃ愛想が尽きたと言っただろう。それでも好きだと言えるのか?」
「好きです」
「二度と躰に触れさせねぇとしても?」
「好きです。ずっと、恐らく初めて会った時から好きだったんだ。これからも土方さんだけが好きです」
「断言するんじゃねぇよ」
 歳三は伏せていた瞼を上げる。
「おめぇの事なんざ嫌いになるつもりだった。悪ふざけに辟易していたんだ。でも如何しても嫌いになれねぇ」
 目の前には泣きはらした惣次郎の双眸がある。
「好きだ、惣次郎」
 口にした途端、惣次郎の表情が綻んだ。濡れた瞳が細められ、口元に笑みが浮かぶ。
「本当?」
「ああ」
 頷けば、止まっていた雫が頬を伝った。嬉しいと何度も繰り返しながら、惣次郎は袖で顔を拭う。
 こういう所は全くの子供だと思う。如何してこんな餓鬼に惚れたのか。身体がでかいだけで中身は子供のままだし、取り分けて顔が良いわけでもない。
 只、真直ぐに見つめてくる真摯な眼差しが愛しいのだと、大した理由もなく彼自身が好きなのだと思う。
「明日、試衛館に帰ろう。今夜は泊まっていけ」
 そう言って手を握り返してやれば子供は、うん、と頷いて実に嬉しそうに笑った。



 翌日、朝食を取ってから歳三と惣次郎は日野を後にした。
 佐藤家を出る時、のぶが歳三に
「あんたの方が年上なんだから、喧嘩するにしても何にしても譲歩しなさいよ」
と呆れ顔で言ってきた。如何やら前日の事柄は喧嘩故のものだと思われているらしい。それならそう思っておいて呉れた方が有り難いと、歳三は諾と頷いた。
 江戸への道中、惣次郎は歳三の手を取る。人に見られるから止せ、と恥ずかしそうに眉を寄せた歳三を惣次郎はじっと見つめた。
「もう、意地悪はしない」
 もう、この人の嫌がる事は止めようと思う。
「そんな事をしなくても、あなたは私の特別な人なんだから」
 好きですよ、と小声で付け加えた惣次郎を、歳三は耳まで朱に染めて見上げた。
「昨夜は泣いていた癖に」
 照れたように呟く年上の恋人に、惣次郎は柔らかく慈しむように微笑み掛けた。




リクに添えているかどうか怪しいんですが…
性格が捻くれている筈だったんですが、最終的に普通のラブラブになってしまいました

しかも書き始めた時はもっと短い話にしようと思っていたんです
気付いたら冗長になっていました

リクして下さった香奈さま、有難うございました



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2005.10.24