罪過
突然、込みあがってくるものがあった。 咳き込むと同時に喉の奥から生温かい液体が溢れ、口を覆った手を濡らした。 手を染めるおびただしい量の血を眺めて、ただ思った。 ああ、死ぬのだと。 そう遠くないうちに死ぬのだと。 常に死と向かいあっている為か、死ぬ事への恐怖は薄い。…が、それは斬り合いで命を落とす場合の事だ。病で死ぬ事に関しては、そう感じられない。 恐怖はない。それは同じだ。 だが、別の思いは抱く。 嫌悪感。 大切な人を守る事が出来ないどころか迷惑さえ掛けて、その上、やせ細って刀も持てなくなってゆく哀れな姿を晒しながら、血を吐いて苦しみながら生を終える事が忌むべき事に感じられる。 苦しめば良い、そう在るべきだから、と頭の中で声がする。此れはお前の業が生み出した結果なのだからと。 この世に存在する総べてのものよりも大切な愛しい人を汚した事への罰なのだと。 そうだ、私はあの人を汚した。 一目見た時から気になっていたあの人を。とても綺麗だと思っていたあの人を。側に居て言葉を交わせるだけで、それだけで倖せだと思える程愛しいあの人を汚した。 確かに側に居させて貰えるだけで良いと思っていた。なのにある時、激情に駆られてこの胸に彼の華奢な躰をかき抱き想いを告げた。 それにあの人が応えてくれたから、だから犯した。 本来なら、剣術が出来る以外はさしたる取り得も無く、容姿もいいとはいえない私のような男が触れられるような人ではない。しかしあの人は私の事を好きだと言って口吻けをくれた。 その白く美しい躰を私にくれた。 私はあの人を貪った。それも一度だけでなく幾度も。 私が欲してあの人が応じる事もあれば、あの人が求めてきて私が抱く事もあった。 幾度汚してもあの人は綺麗なままで、それ故、更に貪ってしまう。 その報いなのだと思う。 「総司」 と叫ぶ声が聞こえ、振り向くと私の大切な彼の人が駆けて来ていた。 私の前に膝をつくと、私のよごれた口元に触れる。その白い指に赤い血が附いた。 「総司、如何してこんな…」 もともと白い顔が、蒼白になっている。 彼は羽織の袖で俺の口を拭おうとした。俺は血に染まっていない方の手でそれを止める。 「汚れますから」 「構わねぇよ」 そう言って口の周りについた血を拭い取ってゆく。 粗方拭き取れたのだろう、彼の人は袖を元に戻すと「総司」と呟くと私の背に手を回した。引き寄せられるままに、私はその方に頬をよせる。 「如何してお前が」 いつものこの人らしくない、うろたえた声を出す。 「総司、如何して」 此れは私への罰なのに、如何してこの人までがこんなに辛そうなのだろう。 「総司」 業を被るのは私だけの筈なのに。 何故。 暗い部屋が更に闇を濃くした時、外でばたばたと足音がした。その足音は部屋の前で止まり、そして中を窺っているようだ。 「歳、居るのか」 「勇さん…」 その声から、足音の主が近藤さんだと判った。 しかし私は、恐らく未だに多少は汚れているだろう口元が気になって顔を上げられない。 「勇さん…総司が」 声が震えている。 「歳?」 その尋常でない様子に、近藤さんは訝しげな声を出す。 「総司が…血を吐いている……血を」 「歳、落ち着け」 「誰か…医者を…呼んでくれ。屯所に連れて帰って…」 「歳」 「総司が…助けてくれ…」 背に回された腕が、さらに強く私を引き寄せる。その腕も震えていた。 怯えているのだろうか。 一体何に。 私の所為だと云うのだろうか。 「土方さん」 私は、出来るだけ元気な声で、彼の人の名を呼んだ。 今はこの人を安心させなければ。 「私はなんともありませんよ。大人数を相手に立ちまわったので一寸疲れただけです。近藤さんも心配しないで下さい」 そう言って、その華奢な腕から逃れる。そして口元が見えないように、そこを手の甲で覆って続けた。 「少し此処で休んでいます。屯所へは一緒に帰りましょう」 不安げな瞳が顔を覗き込んでくる。 「大丈夫です」 もう一度云うと、 「…よし」 私にというよりは寧ろ自分に言い聞かせるように呟くと立ち上がり、近藤さんの肩に手をかけた。 「長州の奴ら、一人も逃がさねぇぞ。逃げる奴らを捕らえちまおう」 不断通りの言い方に近藤さんも安堵した様子で「そうだな」と頷き、二人は階下に降りて行った。 そう、この人が苦しむ事はない。総べては私の罪なのだ。 誰よりも綺麗な貴方を汚した事への罰なのだから。 もうすぐ貴方は私から開放されるのだから。 「援軍だ、会津藩兵が来たぞ」 隊士の誰かが叫んでいる。今更何をしに来たというのだろうか。 随分と楽になったので私は階下に降りた。 指揮をとっていた彼の人は私に気付いて駆け寄ってくる。 「もう終わった、帰ろう」 そう言って、先ほどの不安そうな瞳で私を見つめた。 八木邸に戻る道すがら、彼の人は私の横を歩いていた。俯いたまま、唇を噛み締めて。 そしてふいに手を握られた。 何も言わなくても、この震える手が総べてを語っている。 私はその手を握り返し、そして耳元に口を寄せた。 「私は此処に居ますよ」 返答はなかった。だが幽かな安堵感は伝わってきた。 すべては私の罪なのだ。 大切な人が私故に苦しむ姿を見なければならないのも、私の犯した事への当然の報いなのだ。 だけど頼むから、この人をこれ以上私の罪過に巻き込ませないでくれ。 |