雪が降る。
ただ降り続ける。
降り続けた雪は地に落ちて積もってゆく。
生まれ育った武州や5年ほど住んでいた京都では此処まで深く積もりはしなかった。そこよりも遥かに北に在るこの地では、その寒さからか降る雪は総べて積もってゆく。
夜になると寒さは増す。
建物の中とはいえ例外ではない。しかし外は更に寒いらしく、窓硝子は結露している。
よく降るものだ、と窓の外に一瞥をくれ、土方は寝台の上に身を投げ出した。
鳥羽・伏見での戦から江戸に戻り、転戦し続けて終に蝦夷まで来てしまった。いずれ新政府軍の連中が押し寄せてきて此処も戦場になるだろう。今は雪深い為攻めてこないだろうが、年が明け、春が来る頃には攻撃を仕掛けてくるに違いない。
それまでの間は退屈だ。箱館に拵えた政府の政に関るつもりもなく、ただ戦を待つのみの毎日。
寝返りをうち、溜息をついたそのとき、部屋の戸を叩く音がした。土方は寝台に起き上がり「誰だ」と問う。
「市村です」
と返答があったので入室を促すと、盆を持った市村鉄之助が部屋に入ってきた。
彼は手にした盆を机に置く。
「今夜は冷えるので茶をお持ちしました」
土方は酒を好まない。それを知っている小姓は彼の為に熱い茶を用意してくれたのだろう。
市村に礼を述べ湯飲みを手に取る。煎れたときよりは幾分か冷めた茶を口に含み、喉に流した。茶特有の苦味が口に広がる。
「美味いな」
土方は呟いて微笑んだ。その笑顔に市村はしばし見とれた。
彼は、京都で鬼と呼ばれていた土方が怖かった。整った顔立ちが全くの無表情で規律違反をした隊士に切腹を申し付ける時が特に恐ろしかった。
しかし、京都で新政府軍に敗れ、江戸へ渡り、甲州をはじめ流山や会津へと転戦していくにつれ、土方の気性は柔和になってきた。張り付いた能面のような顔に笑顔が頻繁に見られるようになり、隊士達をよく労わるようにもなった。
彼の変化を見ているうちに、市村の胸の内から今まで抱いていた恐怖心が次第に無くなっていった。
それと同時に市村は気付かされた事がある。
綺麗な上司。未だに彼が激昂すると怯えてしまうが、それでも抱いたある感情。
土方は茶を総べて飲み終え、湯飲みを盆に戻し市村を見て再度礼を述べた。短く切った髪の所為で多少幼く見えるようになった顔立ちで柔らかく微笑む。
「いえ」
礼を言われ、市村ははにかむように笑った。
その笑顔を見て土方はふと思い出す事があった。
半年前に江戸で死んだ沖田総司の事である。
京での隊士募集の際、入隊を希望してきた市村を見て何処となく沖田と似ていると思い、彼を採用した。その採用の仕方に呆れつつ、沖田は「似ていませんよ」などと云って笑っていたが、似ているのだ。穏やかな目元が。
「副長」いぶかしむような市村の声で土方は我に返った。
「どうかなさいましたか」
「いや」問われて言葉を濁す「似ていると思って」
「誰にでしょうか」
「総司に」
その名を口にして急に悲しくなった。江戸で剣術を習っていた頃からずっと側に居た彼がこの世を去ってもう随分と経つというのに、何と未練たらしい事かと、己が情けなくなった。
そんな醜態を見られたくなくて土方は俯いた。
漆黒の髪がさらりと流れて白い首筋が顕わになる。市村からは伏せた睫毛が震えるのが見て取れた。
いつも気丈に振る舞う土方が見せる頼りなげな姿に、鼓動が早くなっていくのを感じる。
転戦するうちに気付いた感情。今日まで自分の中に押し込めていた想い。
市村は土方の肩に手をかけた。
土方は驚いたように顔を上げ、市村を見つめる。その黒い瞳。
市村は肩にかけていた手を己の方に強く引き寄せた。
「て…っ」
声をあげる間も間もなく、土方はこの少年の腕に抱き込まれて口を吸われていた。反射的に首を振ってそれから逃れるが、市村は執拗に唇を重ねてくる。
土方はその胸板を押して市村から体を離し、自分よりも幾らか背の高い小姓を睨みつけた。
「何しやがる」
「副長」市村は唸るように呟き、再び上司を抱き寄せる。
「好きなんです。…だから」
思いも寄らなかった言葉に唖然としている間に、寝台の上に押さえつけられていた。自分の置かれている状況に気付いた土方は市村の手から逃れようとも身を捩るが敵わない。
それどころか、着物の合わせ目から手を差し入れられた。その手が胸を這う。
「止せ」
土方は手を振り上げて市村の頬を打った。市村は自分を打ったその手を掴むともう一方の手と一緒に寝具の上にぬいつける。そして空いた方の手で衣を剥ぎ取りにかかった。
顕わになった胸に舌を這わせると、土方の体が跳ね上がった。
「止めろ」
「嫌です」
言って手を下腹に移す。そこに触れられて思わず唇からくぐもった喘ぎが漏れた。
土方の体は男を知っている。
恋人が居たのだ。唯一の愛しい存在、心の拠り所だった彼は病に侵されて、土方を俗世に残して逝ってしまった。以来郭に行くこともなく恋人を作ることもなかった体は、不器用ながらも久方ぶりに与えられる快楽に反応してしまう。
「鉄」土方の理性が言う「止めてくれ」
市村はそれを無視し、指で土方の秘所を馴らし始めた。
土方は首をそらせて悲鳴に近い声をあげる。挿入されている指が増やされるにつれ、思考が薄れていくのが判った。最早抵抗など出来ようもない。体の快楽に意識が犯されていく。
市村は己の着物をたくし上げ、充分に馴らされたそこに自らの欲望を押し当て貫いた。
嬌声を上げ、虚ろな瞳で土方は自分を犯す男を見上げた。
いつもは穏やかなその目が、真剣に見つめてくる。
ああ、この目には見覚えがある。
いつも己を見つめていた眼差し。
「……じ」
吐息に混じって唇が動く。
「そぅ…じ…、もっと…」
そして緩慢な動作で両腕を上げ市村の首に絡ませた。
「総司…」
耳元で囁かれて、市村は目を見開いた。土方は確かに呟いたのだ、沖田の名を。
何故、彼の名を。
そう思いつつも考えられる事は一つしかなかった。腕の中の麗人は沖田と関係を結んでいたのだろう。
愕然としながらも、市村は自分を抑える事が出来なかった。彼は他の男の名を呼びながら達する上司を幾度も苛んだ。
そして土方はそのまま意識を手放した。
土方と沖田は同じ道場で剣術を学んでいたと聴いた事がある。
市村が入隊した時は、既に沖田は病人であった。殆ど床に就いていて、時々起き出してきても苦しそうに咳をしていた。それにも関らず、体調のいい時は土方に寄り添うように立っていた。周りからは寝ていろと言われてばかりだったが、痩せた頬を膨らませて「大丈夫ですよ」などと云って聞き入れる様子は無かった。
あの頃、滅多に表情を崩す事がなかった土方の笑顔が見られるのは傍に沖田がいる時くらいのものだったように思う。
労咳故に皆に避けられがちだった沖田の部屋にも、土方は暇を見つけては看病に行っていた。
二人の間には入り込めないような信頼関係があるかのように思えた。
そういえば、と市村は思う。
沖田と別れてからの土方は何処となく死に場所を求めているように思えることがあった。近藤や、八王子で別れた永倉や原田らもそう言っていた。沖田の死の知らせを受けてから、それが顕著に現れるようになっている。
後を追おうとしているのか。
市村は腕の中で眠る上司の白い顔を只見つめていた。
翌朝、土方が目覚めると、市村は横でまだ眠っていた。
昨夜、沖田に抱かれるような感覚があった。しかし沖田にしてはぎこちなく、肌に触れてくる感触も違った。それでも自分を見てくる目は沖田と似たようなものだった。
あれは沖田ではなく市村だったのかと、今更ながら思い至った。
全く無茶しやがって、と心の中で毒づきながら、気だるい体を起こし、部屋を出て顔を洗いに行く。
市村に慕われている事は判っていたが、まさかそれが恋愛感情だとは思ってもみなかった。他の隊士たちと同様に、上司として指揮官として慕ってきているものだと信じきっていたのだ。
好きだと言われても如何しようもない。
土方は冷たい水で顔を洗い、身支度をする為に部屋へ向かう。廊下を歩いていると、向こうから駆けてくる市村と鉢合わせた。
市村は土方の姿を認めると足を止め、バツが悪そうに俯いた。
「あの」
彼は下を向いたまま言う。
「昨夜はすみませんでした」
そして彼は顔を上げ、土方の目を見、
「でも」と言葉を繋いだ。
「俺の気持ちは嘘ではありません。俺は副長が…」
「鉄之助」
土方は小姓の言葉を遮った。
「俺はおめぇの気持ちには応えられねぇよ」
「いいんです、それでも」
真っ直ぐな目が見つめてくる。
この目が似ているのだと土方は改めて思う。自分に恋心を告げた時の沖田もこのように真っ直ぐな目をしていた。
「体だけなら構わねぇよ。好きなときに部屋に来な。だが心はやれねぇよ」
そう言うと、土方は柔らかく微笑んでその場を後にした。
それからは幾度となく市村は夜になると土方の部屋を訪れるようになった。
土方は初めての時のように抵抗はしなくなった。ただ、知ってか知らずか沖田の名を呼ぶ。
まるで彼を抱いているのが市村でなく沖田だと思っているように。
心は貰えないと判っていても、その切なげな声に悲しくならずにいられない。
それでもいいと割り切っている。割り切っていると思わざるをえない。
傍に居られるのなら、こうして触れる事を許されるならそれでも構わない。
一方、土方も己が卑怯なことをやっている事は充分に判っている。沖田の居ない寂しさを紛らわせる為に市村を利用しているのだ。それが市村を傷つけている事も判っている。
自分を慕う市村を代わりにしている事に嫌悪感を抱く事もある。
それでも今だけは許して欲しい。
雪が解けて新政府軍が攻めて来たら、心弱い己から開放してやるから。無事に箱館から逃げ出せるように手配してやるから。
それまでの間だけ許して欲しい。
窓の外では雪が降る。
ただ降り続ける。
|