初めに気が付いたのは原田左之助だった。
試衛館に食客として居着いている彼は、それなりに剣術指南もしていた。道場でだるそうに剣を振るっている時、目の端に入る所で、やたらと張り切っているものが居た。
沖田惣次郎である。
もともと筋が良く、めきめき上達し、14歳で師範代となった彼に、原田はもう敵わない。いや、原田だけどころか、道場主の近藤勇や、その友人でこの道場に居候をきめ込んでいる土方歳三ですら、沖田に剣で太刀打ち出来なくなっている。
沖田は先程まで、門下生に稽古をつけていた。弟子たちが休んでいるところを見ると、今は休憩中なのだろう。それにも関わらず彼は剣を振っていた。
―――休みもしねぇで、何張り切ってんだか。
原田は奇妙なものを見るかのように沖田を眺めた。いつも笑顔を絶やさない彼の目が真剣である。
そういやぁ…と原田は思った。ここの所急に沖田は漢らしくなった。17歳にもなれば体も成長し、それなりに大人びてくるものだが、沖田にはこの年頃の少年に見られるような幼稚さが感じられなくなった。とは云っても、相変わらず冗談を言ったり、人をからかったりもするし、子供っぽく笑いもする。土方なんかは未だに「餓鬼のくせに」とぼやいたりしているが、沖田の考え方や、行動からは責任というものが感じられた。そして、もう充分に強いのに、更に腕を上げるべく剣を振っている。
―――ははぁ、惣次郎の奴、恋でもしたな。
原田は笑みを浮かべた。恋は人を成長させる。沖田のことだ、愛しい誰かを守るのは自分だとでも思い込んでいるのだろう。
これは面白くなりそうだ。
「は…惣次郎が恋?」
井戸端で永倉新八が素っ頓狂な声をあげた。
原田は大袈裟に頷き、先程の考えを述べた。永倉は唸った。色恋沙汰とは縁も無さそうに、毎日稽古に励んでいる彼が恋…?
「そういやぁ」
と、永倉は顎に手をやった。ふと一ヶ月前の出来事を思い出したのだ。
卯の刻(午前五時頃)になるかならぬかの早朝、永倉はふと目が覚めた。不断ならもう一度寝直すところだが、彼は便所へ向かった。早い話が、尿意を感じて目覚めたのである。
朝の澄みきった空気の中、完全に覚醒していない為に怪しい足取りで便所へ歩を進める途中、沖田と出会った。
「あれ、早起きなんですねぇ」
と、明るい声を出す沖田に「お前こそな」と内心ツっ込みつつ、口では「まあな」と返す。朝も早いと言うのに、沖田からは眠そうな様子が感じられない。しかし、それに反して、髪と服装は乱れていた。いかにも今まで閨に居ました、と言わんばかりの少年を見て永倉は、
―――子供のくせに女とヤるとは、なんつー奴…
と思った。が、頭が半分眠っていた所為でそれ以上の事は考えず、のろのろと便所に行き、用を足した頃には沖田と会ったことは記憶の彼方に飛んでいた。
その事を話すと、原田はその大きな図体を仰け反らせて驚いた。
「すっかり恋仲かよ」
「だけど、どんな娘なんだろうなぁ」
永倉の疑問の声に原田ははっとする。そしてニヤリと笑った。
「本人に聞くしかあるめぇ」
興味津々の顔で、永倉は頷いた。
稽古の終わった夕刻、原田と永倉は沖田を道場の隅に連れて行った。沖田は手拭で首の汗を拭きながら
「話ってなんですか?」
と聞いた。
原田はコホンと咳払いすると、神妙な顔をした。
「惣次郎…お前、恋してるよなぁ」
「はぁ?」
あまりにも唐突な問いに、沖田は間の抜けた声を出した。
「最近、急に漢らしくなったからよ。それって誰かに恋をしてるからじゃないのか?」
「ええ」あっけらかんと笑い答える「恋していますよ」
永倉が横から口を挟んだ。
「既にそういう仲なんだよなぁ」
そういう仲とはどういう仲だ、と原田は心の中でツっ込みををいれた。しかし沖田は素で言う。
「ああ、矢張りあの朝に気づかれちゃったんですねぇ」
あまりにもあっさり認めるので、原田も永倉も唖然とした。照れながらしどろもどろに答える沖田を想像していただけに、次の言葉が出てこない。
「でも、それがどうかしたんですか?」
沖田は無言の二人に問う。口を開いたのは原田だった。
「どんな恋人なのかと思ってよ」
「どんな…といわれましてもねぇ…」と、沖田は首を掻く。「美人ですよ、もの凄く」
「年はいくつなんだ?」
「年上です。九つ上ですよ」
おぉーと、原田も永倉も目を見開いた。年上好みなのか、こいつ。
「九つ上ってぇと、近藤さんや土方と同じくらいの年だろう?俺らよりも年上じゃねぇか」
「そうですよ」と、興奮する永倉に笑いかける。原田はふと渋面を作った。
「しかし、この近辺にゃ、百姓まがいの女しか居ねぇだろう?お前あんなのがいいのか?」
なんとも失礼な男である。そう言いつつも、辺りの女を口説きに行く原田はどうなのだろうか。
「まさか。色白で、唇は綺麗に紅い人ですよ」
ほう…と二人は想像して息を吐いた。
沖田は「もう、いいんですね」と言って、道場を後にした。
残された二人は、沖田の恋人というのが気になっていた。
狭い試衛館のことである。沖田に恋人が居るという噂は瞬く間に広がった。
当然、土方の耳にも入っている。
土方は唇を噛んだ。話によると、年上の色白美人らしい。
―――何処の誰なんだよ。ふざけんじゃねぇ。
あまり出歩いている様子はないくせに、ちゃっかり恋人なんかつくっている。沖田は背も高いし、剣を握ると誰よりも強いし、それに人当たりのいい笑顔をしているから、娘たちの間で騒がれる存在ではあるが。
―――俺を抱くくせに。
畳に爪をたてた。
―――他所の女に懸想しているなんて…
そして、悲しくなった。沖田の心が土方を向いていなくても、彼は狂おしい程沖田を想っている。本来なら愛しい者の幸せを願って身を引くべきところなのだろうが、土方にはそんなしおらしい考えなど微塵もない。
―――妨害してやる。恋人との仲を引き裂いてやる。
ギリギリと歯軋りしながら、土方は決心したのであった。
試衛館の居候たちが夕食をとっている時、土方は漬物の入った鉢を独り占めして、今後のことを模索していた。つまり、どうやって惣次郎を自分に向かせるかという案を立てているのである。
―――ありきたりかもしれねぇが、これしかあるめぇ。
殆んど無意識に飯と漬物を口に放り込みながら、土方は一人頷く。
一方、土方の苦悩を知らない沖田は、他にも漬物を欲する人々が恨めしそうな視線を投げかけるのを全く気にせず、バリバリと沢庵を食べる青年を、目を細めて見ていた。
食事の済んだ者から席を立つ。漬物にありつけなかった居候たちは諦めきった様子で立ち上がり、三杯も飯をかき込んだ近藤も出て行き、後には未だに漬物を食っている土方と、それを楽しげに見つめる沖田が残された。
くす…と笑う声がして、土方は思案の世界から現実に引き戻された。箸を止めて顔を上げると、沖田と目が合った。その澄んだ瞳に心の中を見透かされそうな気がして、土方は目を反らせた。しかし沖田の視線を痛いほどに感じる。
―――俺以外の誰かをも、そういう風に見たのかよ。
体の中に暗い炎が燃える。それを唇をかみ締めて何とかやり過ごす。
「土方さん?」
沖田が不思議そうな表情で覗き込んでくる。
土方は頭を振って暗い感情を吹き飛ばすと、沖田の許ににじり寄った。少し俯いて、しなだれ掛かるようにに沖田の肩に頬を寄せた。
「惣次郎」と土方は意識的に艶やかな声を出し、沖田の指に自分の指を絡めた。その仕草に沖田はどきっとする。
「今夜」上目遣いに見上げる。「いつもの場所に」
「ええ」
沖田が了承すると、土方はやわらかく微笑み、この少年の手の甲を撫でるように指を離した。そしてゆっくりと立ち上がると、部屋を出て後ろ手に襖を閉めた。
―――勝負はここからだ
今宵の事を案じつつ、土方は歩み去った。
試衛館には部屋数があまりない。居候たちは妙に横に長い大部屋に寝泊りしている。時々外泊する不届き者がいるが、今宵は土方がその外泊者らしく、部屋にいない。
原田と永倉は、その部屋の隅に横になり、沖田の様子を探っていた。
恐らく女に逢いに行くであろう彼を尾行して、噂の「年上の色白美人」を見てみようというのである。
二人が待つ事しばらく、沖田が部屋を出て行った。原田と永倉は、目を見合わせてニヤリと笑うと、機嫌良さげに歩く沖田の後をつける。しかし、彼は外へ向かわず、別の部屋の前に立った。そこは誰も使っていない空き部屋である。
「土方さん、私ですよ」
と、中の者に自分の訪れを知らせてから、襖を開き中に這入ってしまった。
―――オイオイオイ・・・
二人は頭を抱えた。
―――土方と会ってどうするんだよ・・・
それより、土方は外泊じゃなかったのか・・・
「いや、ちょっと待てよ」と、永倉が押し殺した声をあげた。「土方さんの用事が済んだ後で『年上美人』の許へ行くのかもしれないぞ」
「そうかもしれねぇ」
そこで二人はその部屋の側で、沖田が出てくるのを待つ事にした。
「どうなさったんですか?土方さんの方から誘ってくれるなんて」
土方は書き物机に肘をついて座っていたが、沖田が声を掛けるとゆっくりと振り向く。沖田は土方に近づくと、顎をとって唇を重ねた。そして「私としては嬉しいですけどね」と呟いた。
「馬鹿言うんじゃねぇ」と言いかけて、土方ははっと口をつぐんだ。いつも通りの返答をしかけたが、今夜はいつも通りでは駄目なのだ。
土方は沖田の頬に、白く長い指を添え、吸い付くように口付けた。
―――今夜は俺に夢中にさせてやる。いや、今夜からだ。
それが土方の立てた計画である。自分の躰に溺れさせて、年上の恋人のことを忘れさせようというのだ。まさにありきたりである。
しかし、閨にあっていつも主導権を握っているのは沖田であり、只求められるままに応じていた土方は、自分からどう導けば良いのか判らない。更に高すぎる自尊心が邪魔をして、彼自ら一線を越える事に抵抗を感じてしまう。
―――どうしたものか・・・
口付けたまま、土方は次にどうすべきか考えていた・・・と、沖田の手が土方のうなじに回され、更に深く口付けられた。そして沖田の舌が歯列を割って口腔に入り、土方の舌を絡めとる。しつこいまでの口付けに土方は、沖田に翻弄されてしまっていた。
どちらのものとも判らない唾液が土方の顎をつたい落ちる頃になって、ようやく唇が離された。
「何を考えていたんですか?」
土方は顎を拭いながら口を開く。
「何も」
「上の空でしたよ。何を考えていたんですか?」
沖田は土方の着物の襟をつかみ、左右に開いた。年上の男性のものとは思えない程の、白く細い肩があらわになる。
「私以外の誰かのことですか?」
言いながら胸に舌を這わせる。土方は息を詰めた。沖田は更に着物の裾を割り、手を差し入れる。内股をなで上げると、土方の紅い唇から甘い吐息が漏れた。
「や・・・」
いつのまにか沖田が先導している。あまりに不本意な状態に、土方は焦った。
「ま・・・待て、・・・そうじろ…・・・止せ・・・」
「自分から誘っておいて、止せはないでしょう?」
沖田はさらりと言う。触れられる事に慣れてしまった躰は、沖田の舌や指によって与えられる快楽に反応してしまう。
嫌ではない、嫌な筈がない。惣次郎のことが好きだから。
しかし惣次郎は?
こうやって俺の躰をまさぐりながらも、心の中は『年上の色白美人』な恋人のことでいっぱいなのかもしれない。
そう思うと異常なまでの嫉妬が沸き起こる。そして一方的に沖田を思う自分が情けなくなった。
「嫌だ、離せ・・・」
土方は叫ぶなり、力いっぱい沖田の横っ面を殴った。流石にこれには沖田も多少吹っ飛んでしまう。彼は打たれた頬をさすり、憮然として土方に目を向けた。
「何するんですか」
非難の言葉を吐いたものの、ぎょっとした。土方は沖田を睨みつける目から涙が溢れているのである。
只、かなしい。そして口惜しい。
「女のことを想いながら、抱くんじゃねぇ」
「は?」
沖田は目を丸くした。何を言っているのだ、この人は。
「俺が知らねぇと想ってんのか?お前、恋人がいるくせに!」
そう言って、手の甲で乱暴に涙を拭う。何をどう勘違いしているのか判らないが、泣いている土方が愛しくて沖田は彼の躰を抱きしめた。
「私の恋人は土方さんだけですよ」
「嘘をつくな。年上の色白で美人な恋人がいるって噂だ」
沖田は呆れてしまった。それは先日、原田と永倉に喋ったものだが、噂になっていたなんて。しかも、どう考えても土方のことではないか。
「どうせ俺は男だよ。女みてぇに柔らかくねぇし、子も孕めねぇ。・・・だからって・・・ひでぇよ」
土方は沖田の肩に顔を埋めた。肩が震えている。
「土方さん、私の恋人ってどんな人だと思っているんですか?」
「・・・言わなくても、お前自身が知っていることじゃねぇか」
肩に顔を埋めたまま、土方はうめくように呟いた。
「言ってくださいよ」
沖田は土方の漆黒の髪に自分の指を絡める。
「お前より年上の・・・二十歳位の・・・白い、多分・・・町人の娘なんじゃねぇのか」
沖田は思わず、くすっと笑ってしまった。土方は不思議そうな表情で沖田を見上げた。涙に濡れた睫毛が、なんとも美しく、艶めかしい。
「土方さんは私より年上でしょう?それに肌の色も白いし、美人ですし」
「・・・・・・俺・・・?」
「そうですよ。大体、土方さんがいるのに、他の人に目がいく筈ないじゃないですか!!」
土方は目を見開いた。惣次郎の恋人というのは、俺のことだったのか・・・。安堵と共に、肩の力が抜けた。
「だってお前ぇ」と、抗議の声を出す。「言い方も悪ぃよ。男に向かって美人はねぇよ」
「美人ですから」
沖田は微笑んで、土方に口付けた。彼は、何故、土方が自分を誘ってきたのかが判った。
―――全く、なんて可愛い人なんだろう。
そして、いたずらっぽく笑う。
「でも、私を信じてくれなかった罰は与えないといけませんね。今夜は少々のことでは許してあげませんから。」
「・・・馬鹿」
土方は照れたように笑みを浮かべると、沖田の首に手を回した。
さて、その頃の原田と永倉はというと。
待てど暮らせど、沖田は部屋から出てこない。それでも好奇心ゆえにしばらく粘っていたが、とうとう原田が音を上げた。
「もう今夜は出掛けねぇんだろう。明日に期待をかけて、俺は寝る」
永倉も同意して立ち上がった。
「全く、何を長話してるんだか・・・」
ぼやきながら永倉は、二人のいる部屋へと向かう。
「おい、新八、何をするんだ?」
「何もしねぇよ。ただ、こんだけ待たされたんだ、お休みの挨拶くらいしてやりてぇんだよ。」
目が据わっている。
原田は頭を抱えて、好きにしろ、と手を振った。
そろそろ永倉の厭味・・・もとい挨拶が聞こえてもいい頃なのに、「お休み」の「お」すら聞こえてこない。どうしたのだろうかと、原田は部屋の前に立っている永倉に視線を向けた。
そこには襖に手をかけ、「左之・・・左之・・・」と口をパクパクしている永倉の姿があった。
「なにやってやがる」
と、原田が言うと、永倉は震える手で部屋の中を指した。よく見ると襖が僅かに開いている。そこへ向かうと、
「・・・ん・・・・・・あぁ・・・」
と喘ぐ声が耳に這入ってきた。それはどう考えても土方の声で。次いで、
「可愛い、土方さん」
と、沖田の声。
原田は、ばっと少し開いた襖の隙間に飛びつき、室内を覗き込んだ。
コトの最中であった。
「惣次郎・・・もう・・・許して・・・」
そう涙ながらに訴える土方は、妖艶としか形容できない。
「まだですよ」
府ふっと笑い、沖田は土方を床に押さえ込んだまま、その白い首筋に口付けを落とした。
原田も永倉も、呆然とその光景を見ている。
惣次郎の恋人、なんて言ってたっけ?
十七歳の彼より九つ年上―――土方は丁度二十六歳だ。
美人―――確かに綺麗な男である。女でも此処までの容貌を持つものは恐らく居まい。
色白で唇は紅い―――土方は色白である。そして唾液で濡れた唇は、妖しくも紅い。
―――土方だったのか!!
原田も永倉も健全な男子である。男同士のものとはいえ、性行為を見せ付けられて欲情しないわけがない。
彼らは音を立てないように細心の注意を払って襖を閉じると、便所に駆け込んだのであった。
終
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