この躰が朽ち果てる時、魂は風となり、かの人の許にそよぐことを願う。
呼吸が苦しい。
食事も喉を通らない。
病に蝕まれた躰は、以前にも増して動くのが億劫になっている。それでも痩せて骨と皮だけになった腕をもちあげ、枕元にある薬を取る。体力の衰えが甚だしい為、痩せこけた腕ですら重たく感じる。今更薬に頼ったところで、どうにかなるものでもあるまいが、彼は手にした散剤だけは飲まずにはいられなかった。
なぜならそれが、彼のあまりにも大切で愛しい人から渡されたものだったから。
「いいか、必ず飲むんだぞ。」
労咳で床に就いている沖田総司の横に座り、見下ろすようにして土方歳三は念を押した。歳三は、もうこれ以上総司の許に居てやれない。それで大量の薬を渡しに来たのである。
「俺がまた此処に来るまでに治してなきゃ許さねぇからな」
口調こそ厳しいが、心配そうな面持ちをしている。総司は、そんな年上の麗人の透き通るまでに白い頬に手を触れ、微笑んで見せた。
「治しますよ。前にも言ったじゃないですか」
歳三は「うん」と頷き、頬に添えられた総司の冷たい手に自分の手を重ねた。肉の落ちた総司の手の甲は、骨に触れているかのような感触がする。
途端に言いようも無い悲しみが歳三を襲う。どうして総司なのだろうか。総司が一体何をしたというのだろうか。よりにもよって病は何故、総司を蝕むのだろうか。
ふいに涙がこぼれそうになり、歳三は唇を噛んだ。
「土方さん」
総司はゆっくりと上半身を起こし、歳三の綺麗な二重まぶたの目に口付けた。塩辛い涙の味がして、歳三への愛しさが胸に溢れる。
「総司」
歳三はかつて褥の中で囁いていた吐息がちの声を出した。そして身をのり出し、涙に濡れた長い睫毛を伏せた。
合わさった歳三の唇が、微かに震えていた。
かつては病が伝染るからと接吻を拒んでいた。しかしそれは一時期のこと。
総司は歳三の頬に添えていた手をうなじへと回し、更に深く口付けた。お互い、離れていても相手を忘れまいとするかのように、角度を変え舌を絡め、幾度も唇を重ねた。
唇を離すと、名残惜しげに唾液が糸を引き、そして消えた。
歳三は、総司の薄くなった胸に顔を埋める。抑えるような嗚咽が聞こえ、肩が震えている。総司は優しくその背を抱きしめた。
「総司・・・」と、胸に抱かれたまま歳三は言った。「また来るからな」
「ええ」総司は返す。歳三はゆっくりと抱擁から逃れ、総司を見つめた。総司がいつも通りの優しい笑顔を見せると、歳三もつられたかのように微笑を浮かべた。そして別れの言葉を口にすることなく、彼はその場を去った。
歳三の姿が見えなくなってから、総司は独り、落涙した。本当は着いて行きたいのに躰が言うことを聞かない。歳三は戦場へ向かったのだ。もう、今までのようにあの人を守ることが出来ないと思うと口惜しかった。
しかし、歳三の前で泣かずに済んでよかったと思う。彼が時々思い出してくれるだろう自分の顔は、笑顔でなければならない。
「土方さん・・・」
総司は先程まで歳三を抱いていた胸を抱きしめた。
苦い粉末を水で流し込む。
この散剤「虚労散」は、歳三の家に代々伝わっている薬である。
多摩の試衛館で剣の修行をしながら、歳三は石田散薬という家伝の薬の行商をしていた。彼はしばしば薬の入ったつづらと竹刀を持って出掛けて行った。一度出掛けると何日も戻って来ない。幼かった総司は歳三の留守が寂しかった。道場には近藤勇をはじめ、門下生らが居たのだが、それでも歳三一人が居ないことがつらかった。
いつ戻るともしれない歳三の帰りを待ちながら、総司は日々稽古に励み、人一倍早く腕を上げていった。もともと素質があった上に、大切な人を守れるほど強くなりたいという向上心が彼を強くしたのだろう。総司にとって大切な人と言うのは歳三のことであった。この頃はただ漠然と大切な存在だと思っている歳三に、実は恋心を抱いているのだと気づくのは、総司がもっと成長してからであるが。
歳三が薬を売り払って戻ってくると、総司はいつも以上に彼に付いて回った。鬱陶しがられようとも、近藤たちにからかわれようとも、離れていた時間を埋めようとするかのように歳三の側を離れようとしなかった。
枕元に水差しを戻し、昔のことを思い出して、総司はくすっと笑った。
あれはいつのことだっただろうか。
歳三が正式に試衛館に入門していたから、多分自分が十五・六歳になっていた頃だろう。
成長期だった総司は急に背丈が伸び、ずっと顔を見上げていた歳三に並んだかと思うと、あっさり追い越してしまったのであった。
その日、歳三は道場の壁にもたれて門人たちの稽古を眺めていた。丁度休憩していた総司は彼の許へ行き、
「土方さん、私の相手をしてくださいよ」
と、頼んでみた。
「嫌だ」
歳三はそっぽを向いて返答した。総司は強い。自分の腕では太刀打ちできないことを知っている為、自尊心の高い歳三は負けると判ってる剣を交えようとは思わない。
予測通りの答えに総司は軽く笑い、歳三の横に並んで立った。
「ねぇ、土方さん」総司は弾んだ声を出した。「私は土方さんの背丈を追い越したんですよ。」
対して歳三は苦々しい顔をした。この年下の少年に身長を抜かされていることには気付いていた。しかし敢えて素知らぬ振りをしていたのである。今までずっと子供扱いしてきた総司が、自分より背が高くなり、漢らしくなり、その低くなった声で名を呼ばれ、柔らかいまなざしで見つめられ、歳三はどうも落ち着かなくなっていた。それが何故なのか気付かされるのが怖くて、総司を正面から見ることも出来なくなっていた。心を乱されることが口惜しい。
歳三は、不貞腐れたように床を睨みながら
「餓鬼のくせに」
と、憎まれ口をたたいた。
総司はそんな歳三を、目を細めて見つめていた。この人の容姿はなんと整っているのだろうか。色は白く、髪は漆のようで、長い睫毛が形のよい二重瞼の目元を覆っている。体つきは、何処からあの凄まじい剣が繰り出されるのか不思議なほどに細い。美しいという言葉だけでは表せないほどに、この青年は美しい。
ふいに歳三が顔を上げ、総司を睨んだ。
「見下ろすんじゃねぇ」
容貌とは裏腹に、言葉使いは悪い。そのギャップに総司は思わず吹き出した。案の定、歳三は眉を寄せる。
「土方さんが余りにも綺麗なので、見惚れていたんですよ」
その言葉に歳三の頬が朱に染まる。総司から目を反らせて「馬鹿なことを言うんじゃねぇ」と吐き捨てるように言った。
―――可愛い人だ。
と、思う。自分より九つも年上とはとても思えないほど、可愛らしい。
痛いほどに注がれる総司の視線に居たたまれなくなり、歳三は壁から身を起こし、外へ向かって駆け出した。それに気付いた近藤が、
「歳、何処へ行く?」
と呼び止めた。
「一寸、外の空気を吸ってくる」
そうかい、と近藤は歳三を送り出した。綺麗なフォームで走って行くその背を眺めていた総司も、近藤に断って、歳三を追った。
歳三は多摩川の土手に座っていた。
彼は総司が追いつくと、ゆっくりと振り向いた。
「何しに来やがった」
総司はぶっきらぼうに言う歳三に笑いかけ、
「私も外の空気が吸いたかったんですよ」
と、横に腰を下ろした。
「横に座るなよ。俺が小柄に見えるだろうが」
「誰も見ていませんよ」
総司は歳三を見つめた。目が合うなり、歳三は視線を外し、多摩川の流れに目を向ける。
爽やかな風が、二人の頬を撫でた。
総司は、歳三の横顔を見つめる。
昔からこの人は変わっていない、むしろ初めてあった頃よりも綺麗になっている。自分だけが背も伸び、剣の腕も上がって、この人に追いついていっているような気がする。このままいけば、年齢も追いつけるという錯覚にまで陥る。しかし、いくら総司が成長しても、九つの年の差が縮まることはない。九年分この人は経験を積み、九年分自分は人生が浅い。
それがたまらなく口惜しかった。
総司は歳三の頬にそっと触れる。
歳三が突然のことに驚いて振り向くのと、総司の唇が重なるのと同時だった。反射的に歳三は顔をそむけようとしたが、頬から顎にまわした総司の手がそれを許さない。手を上げて総司の肩を押し返そうとしたが、その手は抵抗することなく、総司の着物を掴んでいた。総司は更に深く口付け、歳三の歯列を割って舌を滑り込ませた。歳三は一瞬、体を強張らせたが、恐る恐る舌を絡めた。
どのくらいの間、そうしていただろうか。ゆっくりと唇を離すと、銀色の糸が現れる。歳三の唇に消えゆくそれを総司は舌で追いかけ拭い取る。歳三は照れくさそうに目を伏せた。
「餓鬼のくせに」
非難するでもない言い方に総司は微笑んだ。歳三の背に腕を回して優しく抱き寄せると、彼は大人しく総司の肩に頬を寄せた。
「好きですよ、土方さん」
その言葉に頬を染めつつも、歳三は囁いた。
「俺もだ」
その夜、総司は歳三を抱いた。
約束をしていたわけではないが、総司は頬杖を付いて歳三を待っていた。約束を交わしたわけでもないが、皆が寝静まる頃、歳三は総司の許に来ていた。
後ろ手に襖を閉めると、総司が手招きした。傍へ寄って膝を折ると、総司は歳三の肩を引き寄せ、口付けた。歳三は唇を開いて総司に答える。しかし、緊張しているのか、その躰は強張っていた。
総司は歳三の口腔を犯しながら、手を腰にまわし着物を結び付けている帯を解いた。外気にさらされたその躰の美しさに、総司は思わず息を呑む。
室内の明るいとは言い難い照明に映し出された歳三の肢体は同じ男の、いや、人間のものとは思えぬほど綺麗だった。更に、先程与えられた愛撫によって白磁のような肌にほのかに朱が差し、なんとも妖艶である。
羞恥から、裸身を隠そうとする歳三の手を片手で封じ、空いた方の手と舌とでその躰を愛撫する。初めのうちは唇を噛み締め、声を立てるのを耐えていた歳三だったが、それは長く続かなかった。
総司は歳三の躰をうつ伏せた。
何をされるのかと不安そうに振り返った歳三に笑いかけ、首筋に口付けを落とすと、ゆっくりと腰を突き入れた。
歳三は異物が挿入される激痛を、脱いだ衣を噛みしめて耐える。総司は歳三を傷つけないように気遣いながら、しかし、苦しそうな息の中に愉悦の声が混じるようになると、更に深く腰を進めた。部屋中に湿った音と、弾んだ息、切ない喘ぎ声が響く。歳三は繰り返し総司の名を呼ぶ。総司は歳三を抱きしめ、そして同時に達した。
一体、幾度相手を求め、果てたのだろうか。
互いのぬくもりが、只幸せだった。
ずっと一緒だった。そしてずっと一緒に居る筈だった。
それが適わなくなったのは総司の病状の悪化故にだった。
池田屋襲撃の時に喀血した。それよりも前から歳三に「嫌な咳をする」と言われていた。
その後も剣を握り、酷使してきた躰は最早使い物にならない程にまで衰弱していた。幼い頃から歳三を守りたい一心で磨いていた腕も役に立たない。それどころか足手まといになる。
そして、鳥羽・伏見の戦では、惨めにも床に就いたままになってしまったのである。
敗戦後、江戸へ向かう船の中で、歳三は時間を作っては総司の看病をした。
総司はそんな歳三を見ているのが辛かった。いつも背筋をまっすぐに伸ばし、毅然としている新撰組の副長が、今にも泣き出しそうな表情で自分を覗き込んでいるのだ。
悲しませてはいけないと思った。自分が新撰組に留まっていてはいけないのだ。
だから総司は言った。本当は歳三と共に歩んで行きたかったけれど。
江戸で養生すると告げられ、歳三はその方が良いだろうと答えた。しかし語尾が震え、声が掠れる。涙が頬を伝い落ちた。
「土方さん」
総司が手を伸ばして歳三の涙を、その痩せた指で掬い取った。歳三は睫毛を濡らし、闇のように深い瞳で年下の恋人を見つめた。
「泣かないで下さいよ」
総司は努めて明るく言った。もしかすると声が震えていたかもしれない。
歳三は首をゆっくりと横に振り、「無理だ」と呟いた。溢れる涙を拭おうともせず、総司の肉の落ちた頬に、自らの白い頬を合わせるように倒れこんだ。
「離れたくねぇよ」
総司は両手を歳三の頭に回し、絹のような髪に指を絡めた。
「お前ぇと一緒に居てぇよ」
私もあなたと居たい、と言いかけて、慌てて言葉を呑み込んだ。
この人から離れなければならない。
この人の行く道を妨げてはいけない。
私はもう死ぬべき人間で、この人はまだ羽ばたける人なのだから。
「治ったら、あなたを追いかけますから」
そう。いつかのように。
その言葉に歳三は頷いた。「必ずだぞ」と言い、総司の乾いた唇に口付けを落とす。
不確かな約束の証として。
総司は空を見上げた。よく晴れている。この広い空の下、遠く離れた場所で、あの人は今、何を思っているだろうか。
目を閉じると、歳三の綺麗な姿が浮かぶ。
じきに私の時間は止まり、あの人は尚も生きてゆくだろう。
私の魂は浄土へも土の下へも向かわず、あの人を包む風となろう。
あの人が精一杯生きたと満足し、死を迎える場所が私の腕の中であるように。
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