辺り一面に広がる青い稲穂を、西に傾いた陽が赤く染める。
それまで農作業をしていた青年が手を止めて立ち上がり、大きく伸びをした。見事な夕焼けを眺め、明日も晴れるだろうと思う。この調子だと、もう梅雨も明けたのだろう。
夕焼けを見ている青年の耳に遠くから駆けて来る蹄の音が入ってきた。青年の胸が高鳴る。彼はゆっくりとその音のする方へ顔を向けた。予想通り、鮮やかな黄色の衣装を着た若者が栗毛の馬に跨ってこちらへ向かってくるところであった。
若者は青年の立つ田圃まで来ると、馬の歩みを止めた。
黄色に紋の入った近衛府の制服に、おいかけの付いた冠を着けた若者は青年を見ると人の良さそうな微笑を浮かべた。
「歳三さん」と若者は青年を呼んだ「昨日は御宿直だったんです。会いに来られなくて失礼しました」
「別に、待っていなかったから構わねぇよ」
歳三と呼ばれた青年は膨れてそっぽを向く。それを見て若者はくすりと笑った。
彼は知っている。歳三はいつもこの時刻、つまり若者が出仕を終える刻まで田圃で作業している事も、不機嫌なように見せかけて実は照れている事も。
若者は馬から下りて、田圃の中に突っ立ったままの歳三の傍まで来ると、腰を屈めてその整った顔を覗き込んだ。
「お待たせしてしまってすみません。そろそろ行きましょうか」
歳三は微かに頬を染め、若者の袖を掴む。若者は歳三の手を引き田圃から出ると、馬に彼を乗せ、その後ろに自分も乗ると馬の腹を蹴った。
若者は近衛府の右の少将である。
本来なら農民である歳三が付き合えるような身分ではない。そもそも、お互いの生き方に接点などある筈がないのだ。
歳三が右少将と出会ったのは早春のことだった。
行幸があり、歳三の住む近所を通るというので、村の住人たちは華やかな行列を一目見ようと街道周辺に集まっていった。
しかし、歳三はそのような行列に興味はない。故に彼は行列の通るという街道には行かず、家で僅かばかりの仕事をしてから村の裏側にある山に満開の梅を見に行く事にした。
彼は梅の花を好んでいる。見事に咲いた紅白の梅を見ていると、貧しい生活の事も厳しい労働の事も忘れられるからだ。
歳三が夢中になって梅を見ていると、背後で枯葉を踏む音がした。振り向くと黄金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢を負い、滋藤の弓を持った武官が紅梅の間を抜けて斜面を登って来ていた。年の頃は十六、七だろうか。身分は判らないが、行幸の供奉者だろうと思われた。
若者は歳三に気が付き
「男」
と、声をかける。
「あなたはこの辺りに住む者ですか」
歳三は頭を縦に振った。若者は人の良さそうな笑みを浮かべ歳三に近付いた。遠目で見ても綺麗な男だとは思っていたが、傍で見るとその顔が整っている事がよく判る。
「私は右近衛少将沖田総司と申します。この山の梅が余りにも美しいので、ついつい行列を抜けて見に来てしまいました」
そして顔の前に伸びてきている枝に咲いた花に手を触れた。
「あなたの名は」
右少将は問う。
「歳三」
身分の高い者たちとは違って、彼には苗字がない。
「歳三さんですか」
右少将は花から歳三に視線を移した。じっと見られて歳三は顔を反らした。
「明日、会いに来てもいいですか」
「明日は此処にゃ来ねぇよ」
右少将から目線を反らせたまま呟く。右少将はかさっと落ち葉を鳴らせて歳三の正面まで歩み寄ると、その白い顔を覗き込んだ。
「この辺りに住んでいるんでしょう。探しますよ」
歳三は右少将の目を見つめ
「如何して、そんな事を云うんだ」
と問う。
「また会いたいからですよ」
右少将はそう答えると梅の枝を一本手折って山を降りて行った。
翌日、歳三は夕刻まで未だ何の準備もしていない田圃の傍らに座り込んでいた。
昨日に会った右少将の言葉を信じている訳ではない。むしろ、あのように身分の高い人物が戯れで言った事を間に受ける方こそ可笑しいと感じる。それでも少しの期待をかけてしまうのは、もう一度あの若者に会いたいと思っているからだ。
陽が沈み、辺りが暗くなってきている。
歳三は深く息をついた。やはり来る筈がなかったのだと腰を浮かせた時、蹄の音が聴こえた。それは歳三の側まで来ると止まり、次いで聴き覚えのある声で
「歳三さん」
と呼ばれた。
「出仕が済んでから急いで来たのですが、お待たせしてしまったようですね」
「待ってやしねぇよ」
そう言いながらも喜んでいる自分が居る。如何言ってみても此処で右少将を待っていたことは明らかだろうが、素直に待っていたと告げるのには照れがある。右少将は馬から降りると、夕暮れ時の冷える空の下で何刻も過ごしていた歳三の手を引いた。
「私の邸は朱雀門の内側・五条に在ります。行きましょう」
歳三はうんと頷き、右少将と共に彼の邸宅に向かった。
出会った当初は、五条の邸で唐菓子を振舞われたり食事を馳走になったりしていたが、桜が散り青い葉が茂る頃には情を交わす仲に変わっていた。男同士だとか、身分違いだとか、そういう事は考えなかった。一緒に居ると嬉しくて楽しくて、幸せに思えると云うそれだけのことだったのだ。
御簾の間から朝の光が差し込んでいる。
その日も歳三は右少将に遅れて目を覚ました。農民は日が出ると同時に起きて働かねばならない事になっているが、歳三は朝に弱く、いつもある程度日が昇ってから出ないと起き出せない。それに比べ右少将はかなり早起きで、歳三は彼が眠っている姿を未だ見た事がなかった。
朝食を取り歳三が帰り仕度をしていると、随身が右少将に来客がある旨を伝えに来た。右少将が通すように云うと、衣擦れの音をさせながら色白の美しい女性が顔を覗かせた。
「姉上」
右少将が呼ぶと女性は微笑みを浮かべた。しかし、右少将の横に座る歳三の姿を見るなり表情が凍りついた。
「貴方、身分は」
女性は歳三に問う。農民だとも云い辛くて俯くと、女性は
「総司」
と右少将に向いた。
「この人は農民ではありませんか。」
「だったら如何だと仰るんですか」
「農民を邸に、しかも寝所に入れるとは何たることですか。」
女性は眉を顰めて歳三を見る。居たたまれなくなって彼は俯いたまま膝に置いた手を握り締めた。
「男色が悪いとは云いません。巷では行われている事ですもの。でもね総司、相手を選びなさいな。この先、卿相雲客になろうと云うなら其れなりの身分の貴公子を連れてくればいいではありませんか」
「姉上」
右少将は珍しく声を荒げた。しかし女性は構わずに喋り続ける。
「農民からは何も得るものがありません。それどころか汚らわしい。
せめて右大臣の御子息・伊予守左之助様や、藤堂大納言の御嫡男・左馬督平助様等は如何ですか。御年も近うございますから」
「姉上」
右少将が言うのと、歳三がその場から逃げ出すのは同時であった。
「歳三さん」
後ろで右少将が叫んでいる。しかし歳三は止まることなく駆け続けた。
自分の身分が低いという事を嫌というほどに思い知らされた。
右少将が気にしなくても、歳三が気にしなくても、確かに身分制度は存り、それに則って皆は暮らしているのだ。
気が付くと、歳三は梅林に佇んでいた。右少将と出会った場所。満開だった花は散り、代わりに葉が茂り、実をつけ、あの頃とは違う景色になっている。
歳三は一本の木の根元に座り込み、膝に頭を乗せた。
あの時此処で右少将に出会わなければ良かったのかも知れない。彼と会わなければこんな思いをせずに済んだ筈だ。
それとは反対に、右少将に会って良かったとも思える。彼と居る間、とても楽しかった。変わり映えしない生活が潤っていた。
もう彼に会う事はあるまい、と歳三は思った。右少将の姉の云う通りである、出世を考えるなら自分と居ては何の得にもならない。それよりも得るものがある公卿殿上人と付き合った方が余程彼の為になるだろう。
どの位の時がたったのだろうか。
不意に草を踏む音が聴こえ、歳三は顔を上げた。
向こうから歩いてくる人物に、何故と思う。
「やはり此処でしたか。村に居らっしゃらないから探しましたよ」
「如何して」と、歳三は掠れる声で言う。
「如何してとは何ですか」
右少将は歳三の前にしゃがみ込んだ。
「貴方こそ如何して逃げたりしたんです。姉上が何と言おうと構わない。身分なんて関係ない、ただ一緒に居たいんです」
そう云って右少将は歳三を抱き寄せた。
「私は貴方が好きなんですから」
「総司」
歳三は右少将の背に手を回す。
「俺もお前が好きだ」
公達と農民、周囲に認められる事はないだろうが、それでも想いは変えられない。
出会う筈がない出会い、深まる筈がない関係。それらを打ち消すように出会い、そして関係を結んだ。
今更なかったことには出来ない。
それならそれでいいではないか。
右少将は歳三に口付ける。それは今までのものよりも遥かに心地良いものであった。
「という夢を見たんだよ」
歳三は耳まで真っ赤にしながら話し終えた。総司は腹を抱えて笑っている。
「寝言で熱烈な告白をしてくれるから如何したのかと思えば、そんな楽しい夢を見ていたんですね」
歳三は昨夜、奇妙な夢を見た。身分違いの恋人に云った「好きだ」という言葉が寝言として総司の耳に入っていたらしい。さっき目覚めるなり、如何いう夢を見たのかと問われてその内容を今迄語っていたのである。
「笑うなよ」
歳三は総司を睨みつけた。
「はいはい」
総司は笑いすぎて目に涙を浮かべている。
「それにしても凄い夢ですね。私が近衛の少将で、土方さんが農民ですか」
「実際、百姓の出だからだろう」
歳三は不機嫌そうに呟いた。
「今の世だからお前と俺はこうして一緒に居るが、身分制度の厳しかった頃に生まれていれば出会う事はなかったんだろうな」
この動乱の時代だからこそ、歳三は武士になれた。だが安穏とした時代のままだったら如何だったろうか。
総司は奥州白川藩の武士の嫡子、自分は武州の百姓。
「何を言ってるんですか」
総司は歳三の体を胸に抱いた。
「例え身分制度の厳しい時に生まれていたとしても、私は右少将と同じ事をしたと思いますよ」
身分が違っても、男同士でも、周囲が反対しようとも。
「半端な気持ちで好きになったんじゃないんですから」
そして腕の中で真っ赤になっている歳三に唇を寄せた。
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