願い、ひとつ・・


文久二年、暮。

試衛館を揺るがす報せが、山南によってもたらされた。

「出稽古に行った先で、偶然耳にしたことなんだが・・」
そう切り出した山南に、誰ともなく耳を傾ける。
「年が明けたら、家茂公が上洛されるそうだなんだ・・」
そこまで言った山南に、道場主でもある近藤がすぐさま反応した。
「いよいよ公武合体を実現されるおつもりなのか?」
勢い込んでそう言う近藤に、山南は、首を横に振りながら答える。
「さぁ・・残念ながら、そこまでは・・・ただね」
そこで一度、言葉を切ってから、山南が、口を開く。
「その将軍様御上洛に先駆けて、その御上洛の警護と京の治安のための、尽忠報国の士を、幕府が募ると言うんだ」
「!!」
その言葉に、その場の空気が、一変した。
常日頃から好奇心旺盛な原田はもちろんのこと、藤堂、永倉までもが、山南の方へと向き直った。
普段、何事にもあまり興味を示さぬ土方ですら、その黒々とした眸を大きく見開いて、山南の口元を、見つめていた。
「こんな機会・・滅多にあるものでは・・ないだろう・・?」
穏やかにそう言った山南に、近藤が返す。
「確かに・・」
何事か、思案する様子の近藤に、土方が言った。
「勇さん・・」
その眸が、獲物を見つけた獅子のように、澄んだ光りを、放つ。
近藤は、土方へと、顔を向けた。
「行こうぜ・・こんなすげぇ機を、逃す手はねぇよ・・」
どこか、熱に浮かされたように言うその声に、近藤が返す。
「歳・・」
「な?・・行こうぜ・・俺たちの、誠の武士道ってもんを試す、絶好の機会だ」
普段の土方の様子からは、想像も出来ぬほどにそう言って熱く語る土方を、どこか遠くを見るような眸で、沖田は見ていた。
すると今度は、原田が、それに賛同する。
「そうだぜ、近藤さんっ・・一丁俺たち全員で、京へと乗り込んで、ひと旗あげてやろうぜっ」
その原田の声に、永倉の言葉が、重なる。
「あぁ・・俺も賛成だな」
藤堂が、その眸だけで、同意する。
山南は、それらを踏まえたうえで、近藤を見やる。
すると近藤もまた、その眸に、幾ばくかの期待と、野心を秘めて。
そして、何より、まっすぐな志を映して。
はっきりと、言う。
「あぁ・・やろうっ!」
その近藤の決断のひとことに、「おぅっ!!」という歓声があがる。

そんな中。

沖田は、ただひとり、事の成り行きだけを、ありのままに受け止めていた。



山南の報せがあってから数日。
すでに、皆、心は京へと決していた。
それは、沖田とて同じ事で、少しずつではあるが、身辺の整理も始めた。
姉にも、知らせておかねばと思いあたり、そのことを近藤に言ってから姉夫婦のもとへ出かけようと、沖田は、その廊下を、歩く。
しかし、目的の近藤の部屋へとたどり着く前に、それより手前の部屋から、不意に土方が顔を覗かせ、ふと沖田を呼び止めた。
「総司・・ちょっと来い」
「何です?」
そう言って、土方のいる部屋へと、入る。
「そこぉ閉めて・・ちょっと座れ」
常から開け放したままである障子を閉めろという土方に、沖田は訝しがりながらも、言われたとおりに障子をしめて、土方の前へと、座る。
「あらたまって・・何ですか?」
少し笑ってそう言った沖田に、土方は、目を合わせない。
「土方さん・・?」
沖田がそう声を掛けたの受けて、土方が、口を開いた。
「この間、山南さんがもってきた話のことだが・・」
それだけで、京へ上洛する浪士隊への参加のことと、知る。
土方は、沖田の方を見ないままに、静かに、言った。

「おめぇは・・ここに、残れ・・」

え?

咄嗟のことに、声すらもあげられず、その目を大きく見開いて、沖田が土方を見据える。
その沖田の眸とは、依然として目を合わせないままに、土方が、口を開いた。
「勇さんとも・・話し合ったんだが・・・」
その土方の言葉に、沖田の肌が、粟立つ。
次にくるであろう、その言葉に。
血の気が、失せていくのを、感じる。
畳へと視線をはわせたままの土方が、そのひとことを、告げる。

「おめぇは・・この試衛館に・・残れ」

何を、言われているのか。
目の前が、ぐらぐらと、揺れるのを、感じる。

さらに、土方が、言う。
「おめぇは・・ここで、天然理心流の五代目として・・道場を継いでる方が・・性に合っているだろう?」
小さく、言う。
「・・勇さんも・・その方が・・おめぇのためだと・・」

あぁ。
そうなのかと。

哀しみとも言えぬほどの、この、惨め過ぎる、結末に。
涙さえも、こぼれぬでは、ないか。

必要ないのですね。
あなたの未来(さき)には。
私など。
必要、ないのですね。

ふわりと、笑う。
わかりきっていた、ことではないかと。
そんなこと。
とうの昔から、知って、いたではないかと。

今更に、傷つく己に、言い聞かせ、ひとつ、笑って、ぽつりと、返す。

「・・わかりました」
「総・・司・・」
その沖田の笑みに、土方ははじめて沖田を正面から、とらえる。
そんな土方に、沖田はもう一度、言う。

「わかりました・・」

それ以上の言葉は。
浮かんでは、こなかった。

土方の眸が、揺れる。
それを見続けるのは、今の沖田には、つらいと、感じた。

「では、私はこれで・・」

何事もなかったかのような顔をして、沖田はその場を、立つ。
ゆっくりとしたその動きが、自分の身体であるはずなのに。
どこか、遠くに感じる。
部屋を出て、障子を閉めると、そのまま試衛館を、後にした。


日が、暮れる。
夜が、来る。
けれど。
そんなことなど。
今となってはもう、どうでも、いい。

土手に下りて、草の上に腰を下ろすと、その確かな大地の感触に。
涙が、零れた。

共に、歩むことすらも、許されぬと言うのか。
たった、九つ違うだけで。
こんなにも。
こんなにも、あの人までの道のりは。
遠のいて、しまうのか。
心が、叫ぶ。
嫌だと。
そんなのは、絶対に嫌だと。
一緒に、行きたい、と。

けれど。

『わかりました』

そう、答えた、己がいた。

認めてもらえぬのであれば。
せめて、重荷にはなりたくないと。
聞き分けのいい、振りをして。
せめて、それくらいは、大人なんだと。
あなたに、近いんだと。
それが、せめてもの、強がりであった。

子供のように、駄々をこねれば。
あの人は、連れて行ってくれるのかもしれない。

『しょぉがねぇなぁ』

そう言って、ともに歩むことを。
許してくれたかも、しれない。
けれど―。
それでは、いつまでたっても。
自分は、土方にとって。
「弟」でしか、ない。
それでもいいと。
思っていた己の甘さと。
諦めの悪さに。

涙が、出る。

決して、寂しいわけではないと。
決して、哀しいわけでは、ないのだと。

そう、言い訳を、する。

それも。
見捨てられたと。
裏切られたと。
自分勝手な己の想いが。
吐き出せぬ、己の内の、どろどろとした薄暗いものが。
己の内で、逆巻いては。

涙を、流させる。

違う。
それは、違う。
あの人は、悪くはない。
悪いのは。

己だ。

その力を持たぬ、未熟な、己。

あの人と同じ道を、歩むことを許されない。
己が、悪いのだと。

気がつけば。
無意識に、あの人を庇う。
己がいて。
そんなにも、焦がれてしまっているその事実に。

また、涙が、零れる。

せめて、あと五年。
いや、三年でいい。
せめて、あと少しでも早く、生まれてきていたら。
少しは、何か。
変わっていただろうか。

そう考えて、苦く、笑う。

すべては、はじめから。
決まっていたと、いうことなのだと。
いくら己が、努力しようと。
どんなに頑張って、剣の腕をあげようと。
たとえ、何年早く、生まれてきたとしても―。

おそらく、結果は、同じであっただろう。

いつか、二人、出会って。
互いの夢を、語らって。
きっと、今のように。
いつかは、自分の手の届かぬところに行ってしまう日が。
来たので、あろう。

この世には。
どうにもならぬ、こともあるのだと。
わかっていたでは、なかったか。

とめどなく頬をつたう涙が。
行き場を失った、この想いが。
叫んでいる。

好きだ、と。

本当に。

ただ、それだけなのだと。
悲痛な叫びを、あげている。

決して、届きようもない、この想い。

傍に居られるだけで、よかったのに。
ただ、近くに居て、あの人のために生きることだけが。
ただ、ひとつの。
願い、だったのに。
それ以上。

望んだりは、しないのに。

それさえも、叶わぬと。
そう、言うのか。

ふと、思う。

あぁ。
絶望とは、こんなものなのかも、しれないと。
望みを、絶たれ。
未来など、見えようはずもない。
今、この目の前さえも。
真っ暗闇であるのに。
未来など、見えるはずが、ない。


日が落ちて、周囲の温度が、急激に下がり始める。
けれど、そんなことさえどうでもいいと。
そのまま川べりに座る沖田は、そのままごろりと、横になって、目を、閉じる。

このまま、二度と、目覚めなければいい。
そうしたら、知らずに、済むから。
あの人のいない現実を。
それでも生きなければならないという、その事実を。
知らずに、済むから。

肌を刺すような冷気と、枯れるほどに涙を流した倦怠感とが。
沖田の思考を、ゆっくりと、霞ませてゆく。

そう。
どうかこのまま。


「総司―っ!!」

眠りに落ちかけたそのとき。
遠くの方から、怒声とも言うべきその声が、沖田の耳へと、届いた。
目を開けて確かめずともわかる、その声に。

沖田の閉じた眸からは、再び、涙が、溢れた。

こんなにも、好きなのに。
どうにも、ならぬと、言うのか。

沖田は、ゆっくりと身体を起こして、土手の上を走り去ろうとするひとつの影に、声をかけた。
「土方さん・・」
ごくごく微かであったはずのその声に、しかし、その影は、ぴたりと静止した。

そして、次の瞬間、
「総司かっ?!」
と叫ぶと、ざざざっと音を立てて、総司のいる川べりにまで、おりてきた。
「総司っ!」
沖田を目の前にして土方は、開口一番その名を呼ぶ。
沖田は、ゆっくりと返事を、返した。
「どうしたんです・・血相変えて・・」
声が、上擦らないようにと。
静かに言った沖田の心を、知ってか知らずか。
土方が、両の手で、沖田の袖口を掴みながら、言う。
「総司っ・・やっぱり・・やっぱり・・」
「?」
土方の只ならぬ様子に、沖田が訝しげな眸を向ける。
しかし、土方はただ一心に沖田へと何かを訴える眼差しで、先をつなぐ。

「やっぱりおめぇは・・京へ行くのは・・嫌・・か?」
「は?」

土方の突然のその問いに、事の成り行きを把握できてはいない沖田が、奇妙な声をあげる。

「なぁ総司・・やっぱり嫌か・・?」

「何の話を・・」
同じ問いばかりを繰り返す土方に、一向に話の矛先が見えて来ない沖田は口を開きかけたが、そのまま黙ってしまった。
薄暗闇にもわかる、その必死な土方の眼差しに、目を奪われる。

あぁ、綺麗だと。

場違いなまでに見とれて、そう、思う。
そんな沖田の沈黙を、どうとらえたのか、掴んでいた沖田の袖口から、するりとその手を落として、言う。

「そ・・だよな・・おめぇ・・血生臭ぇのなんか・・嫌ぇだもんな」
ぽつりと、言う。

「土方・・さん・・?」

まったく話の見えてこない沖田には気づかずに、土方が、言う。
「わかってるさ・・わかってる・・・わかってんだけど・・でも」
何がわかっているのか、どうわかっていると言うのか。
それ以上は何も告げずに、ただ『わかっている』と繰り返す土方が。
ひとこと、言う。

「でも・・おめぇがいなくなっちまうのは・・嫌なんだ」

小さく言った、土方の言葉に、沖田は大きく、目を見開いた。

「おめぇにとっちゃぁ・・江戸で道場主として、平和に暮らす方がいいってなぁわかってんだ・・でも」

僅かに顔を上げて、沖田の眸を真っ直ぐに見て、土方が言う。

「でも・・・俺は・・お前に・・居て欲しい」

哀しげに揺れる、その眸に。
沖田は、朧気ながらも、事の顛末を、掴む。
それを確かめるために、けれど俄かには信じがたいその事実に、掠れる声で、沖田は土方へと、言う。

「残れと言ったのは・・あなたの方じゃぁ・・ないですか・・」

その沖田の言葉に、土方の眸が、揺れる。
頭を、縦にひとつおろして、俯いたままに、言う。
「だって・・山南さんがもってきた話聞いても・・おめぇちっとも乗り気そうじゃぁなかったし・・」
「別に、乗り気じゃないなんて言った覚えはありませんよ」
内心、沖田は驚いていた。
まさか、あの時の己の様子を、土方が気にかけていたとは。
確かに、他の人たちほどに乗り気・・とは言い難いかもしれなかったが、それでも、土方が行くのであれば当然己も行こうと、そう腹に決めていたのは、事実であった。

土方が、さらに小さく、言う。

「全然・・・行きたそうじゃ・・なかったじゃぁねぇか」

さらに、土方が、言う。

「だから・・俺ぁおめぇが・・行きたくもねぇのに・・言い出せずにいるのかと思って・・勇さんに・・相談までして・・・」

何だか拗ねたように言う、土方のその物言いが。
何よりも。
愛おしいと、思う。
そんなことを、気にして。
そんなことまで、わざわざ、気をまわして。

沖田はふわりと笑って、目の前にある土方の身体を、抱き寄せた。

「なっ・・馬鹿っ!なにしやがるっ!!」
突然のその沖田の行為に、土方が声をあげる。
おそらく真っ赤になっているのであろうその表情は、今の沖田からは、見えない。
沖田は、ひとつ笑って、言う。
「寒いんですよ・・ずっと・・こんなところに、居たんでね」
そう言うと、土方は、それ以上は何も言わずに、大人しく沖田のさるがままになっていた。
沖田は、土方の体温を着物越しに感じながら、静かに、言う。

「ねぇ・・土方さん」
「ん?」

くぐもった声が、返る。
沖田は、たったひとこと、尋ねる。

「一緒に行っても・・いいですか?」

沖田のその言葉に、土方が咄嗟に顔を上げた。

「総司・・」
「あなたと一緒に行っても・・いいですか?」
あなたの道を・・
ともに、歩ませて・・くれますか?

土方の、言葉が、返る。
「おめぇ・・後悔・・しねぇか・・?」
「はい」
即座に返した沖田に、さらに土方が、言う。
「京にのぼりゃぁ、不逞の輩がごろごろしてんだぞ・・?」
「大丈夫ですよ?私は強いですから・・」
おどけてそう言ってみせた沖田に、土方の真剣な声が返る。
「馬鹿野郎・・・そうゆうことじゃぁ・・ねぇよ・・」
「わかって・・います」

何故、気がつかなかったのか。
この人が、何を思っていたのか。
このひとが、何を、案じていたのか。

何故、気づかなかったのだろうか。
この人の、どこまでも優しい。
その、心を。

見捨てられたなどと。
裏切られたなどと。
何故、そんな風に、思ってしまったのか。

土方が、俯いたままに、言う。
「人を・・斬んなきゃぁなんねぇかも・・しれねぇんだぞ・・?」
「はい」
やわらかく笑んで、そう答えた沖田に、土方が顔をあげて、複雑な眸を、向けた。
そして、小さく小さく、言う。
「おめぇには・・人なんか・・斬らせたかぁ・・ねぇ」
どこか、駄々っ子のような物言いの土方を、沖田は、もう一度、抱きしめた。
おそらく、沖田が考える以上に、土方は沖田のことを、考えていて、くれたのであろう。
そう思うと、嬉しくて。
涙さえも、出そうになる。
心が、あたたかくなって。
涙さえも、出そうに、なる。

土方の身体を抱きしめたままに、言う。
「土方さんて・・」
「ん?」
くぐもった声をあげる土方に、沖田はもう一度、言う。
「土方さんて・・」
そこで区切って、言う。

「土方さんて・・あったかい・・ですね」

土方は、沖田のその言葉へは返さずに、沖田の背へと、己の腕をまわした。
それに、心中驚いた沖田ではあったが、それより先に、愛しさの方が込み上げてきて、より強く、その土方の痩躯を、抱きしめた。

そんな沖田に、土方が、口を開く。
「おめぇは・・冷てぇ・・な」
土方の言葉に、ふふ・・と笑って、沖田が言う。
「えぇ・・随分と前からここにいますからね・・」
しかし土方は、もうひとつ、言った。

「でも・・」
「でも・・なんか・・あったけぇな・・」

そして、言う。

「一緒に・・行こうな」
「はい・・」

嬉しくて。
嬉しくて。

あなたのその一言が。

嬉しくて。

この人のために生きられるのであれば。
本当に、他になにもいらぬと。

強く、そう、思った。



文久三年、二月。
ただひとつの想いを胸に。
京へと、出立する。

すべてを捧げようと誓った。
その人と、ともに。



サトシ様、たまの我が儘リクに答えてくださって有難うございました。
心があたたまる小説ですねv
サトシ様の文章、好きでなんですよ。



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