(社)奈良まちづくりセンター主催「大和の建築家・岩崎平太郎とその時代展」 2004.01.25

「岩崎平太郎」という建築家の発見
                                    建築史家・川島智生(神戸女学院大学)

 ○考察のキーワード:「岩崎平太郎」、「武田五一」、「吉野地方」、「近代和風」、 「民間建築家」、
               「奈良県営繕組織」、「奈良県の近代化」
1.岩崎平太郎の発見
 奈良県下には法隆寺を嚆矢として近世までに建設された名高き仏教寺院が数多く存在する。比べ、明治以降に奈良県下に建てられた建築については、長野宇平治の奈良県庁舎や片山東熊の奈良博物館については知られるものの、それ以外の様相について建築史から論じられたものは少ない。筆者は公共建築の歴史研究という視点から、奈良県下建築の近代化の様相を観察するなかで、吉野出身で奈良県下において最初に民間建築事務所を開設するひとりの建築家を見出した。それは岩崎平太郎である。
 岩崎平太郎の足跡を辿ることで、これまで判明しなかった戦前期までの奈良県下建築のひとつのパースペクティブがあきらかになる。このことは奈良県の近代の意味を建築側から解明していくことに繋がるだろう。

2.隠されていた事由
 岩崎平太郎が手がけた建築は数多くあったにもかかわらず、次の五つの事由等により、岩崎平太郎の名前はこれまで、なかば隠されてきた。
 第一は武田五一の配下で設計活動をおこなっていたことで、名前が前面に出なかった。すなわち実施設計およびに現場監理担当者というレベルにとどまっていた嫌いがあった。もっとも武田五一の名が一般に知られるようになったのは近年の近代建築見直しの一環の中であって、モダニズム全盛期には顧みられることすらなかった。
 第二は岩崎平太郎最大の作品・旧制畝傍中学(現、畝傍高等学校校舎)が奈良県土木課営繕係という組織のなかでおこなわれた建築ゆえに、その名が広く表明されなかった。戦前までは公共建築については、役所の中の建築部門がほぼ一手に設計業務をおこなった。組織と個人という問題があった。
 第三は建築事務所の開設が昭和12年という戦争に突入する直前にあたり、建築家として名前を挙げる、いわゆる美術建築を手がけることができなかったという時代背景があった。戦後は奈良県の建築をいわばリードしていく建築家のひとりになったものの、時代の要求は戦前期までのものとは異なり、建築のスタイルはあまり問われることはなく、質的内容よりも機能や量などが課題とされた。
 第四は建築作品としてのスタイルが比較的地味であったことが関連する。つまり、大胆なモダンデザインではなく、和風をベースとしたものであったために注目されることが少なかった。しかし、戦前期までのものについて詳細に分析すると、地域性をくみとった新しい「風土」建築が武田五一の影響のもとで試行されていた。
 第五としては、建築ジャーナリズムをはじめとする建築メディアに登場することがなかったということが関連する。このことは結果として、建築家としての理念や言説を直接の言葉で残し得なかった。すなわち、建築家としてどういうことを目指していたのかが明確化されなかったということである。しかし戦前期までの建築家の多くは、現在と違って、言葉により建築を語るのではなく、建築作品自体でその意味を示した。

3.岩崎平太郎の足跡
 岩崎平太郎は明治26年(1893)に奈良県吉野郡下市町に生まれる。吉野工業学校建築科を明治44年(1911)に卒業し、京都府社寺課に勤務し古社寺修復業務に携わる。大正4年(1915)に京都府時代に出逢った京都府の建築顧問で、京都高等工芸学校教授の武田五一に誘われ、サンフランシスコで開かれた太平洋惇覧会の日本館建設のために渡米する。大正10年(1921)に吉野に戻って以来、吉野を拠点に建築活動を開始する。昭和6年(1931)に奈良県土木課営繕係の建築技手となり、昭和12年(1937)に奈良市内にて建築事務所を開設する。そして、昭和59年(1984)に91歳の生涯を終えた。

4.武田五−との関係
 岩崎平太郎は、武田五一という関西建築界のボス的役割を果たしたプロフェッサー・アーキテクトの実務面を担った建築家のひとりだった。
 少し武田五一のことについて触れておくと、武田五−は京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)や京大建築科の創設者であるとともに、関西を中心に数多くの建築を設計した建築家で、アール・ヌーボー建築の日本への導入者としても知られる一方で、平等院をはじめとする古社寺の保存をも担った。岩崎平太郎と武田五一の関わりについては、奈良での協力者ととどまらず、武田五一が設計依頼を受けた和風の邸宅や社寺などを神戸や京都でも完成させている。そのことは武田五一の建築を実現させるための建築事務所「木桂社」の経営に当たっていたことから判明する。いわばある時期において、岩崎平太郎は番頭格の役割にあった。
 武田五一の建築部門の実務担当者として判明しているのは、荒川義夫、宇都宮誠一郎、松本儀八、岩崎平太郎、この四人が現時点で判明するもっとも関係の深い建築技術者であった。
 荒川義夫は主に京都の鉄筋コンクリート造のものを中心に洋風建築を。宇都宮誠一郎は家具やインテリア、工芸品といった小物を。松本儀八はスパニッシュをはじめとする洋風住宅を。これまでは、寺院や格式高い和風住宅の部分を誰が担ったのかが解らなかったが、「岩崎平太郎」という人物の発見により、武田五一の「和風の部分」の謎が解き明かされたとともに、「奈良県下の武田作品の担い手」が判明し、その成立を解明することができた。