美しさは奈良の周縁にある。
                    奈良の遺伝子は道にあった。
                                                    岩崎 弘


探検とは所詮人間の魂の暗黒部を探る努力である。ここ、ならまち遺伝子探検とは、カオス(混沌)を解剖しようとする行為である。だとしたらそのフィールドをカオスに求めればいい。
 「まち」は森羅万象を内包する。そして、それらが一定のパターンに配列されているようで、されていない。ゆえに、まちはカオスの具現化したものだといえる。
 「まちの遺伝子」−というと、いかにももっともらしい。はっきりいう、これは一種のあと知恵だ。私の好奇心というエネルギーの推力だけを頼りに、奈良まちをさまよい、放浪した過程のなかで、まちのぼんやりと拡散したイメージが、しだいに「まち」探検という、しっかりとした核を持った理論へと凝縮してこのパネルとなったというのが妥当だろう。とにもかくにもこの作業、本当の意味で、ものになるのか、ならないかは、これからの努力しだいであると思っている。


                  美しさは合理の周縁にある。
                      奈良の遺伝子は道にあった。
                         屋根にも。
小さな空間、細い道の価値

 小さなものには未来性があり夢とロマンがある。小さな空間、細い道一狭い空間ではない。都市の住まいの中になんとか安らぎと、人間性を回復したいという現在人の悲願のようなものを感ずるのである。
 都市が巨大化し雑踏化すればするほど、小さな静かな空間が必要となるであろう。小さいとは必ずしも空間の狭さを意味するのではなく、茶室や盆栽などに見られるように、小さいことによって積極的に実現される価値を認めることであり、空間が大きいために実現されない中身の豊かさを「小さな空間」の中に見いだすことなのである。
 小さな空間とは、第一に個人的(パーソナル)であり想像的であり、静寂であり、詩的であり、人間的であることである。それはいずれをとっても大都市の雑踏が、匿名的であり、喧騒であり、非人間的であることと対比されるであろう。この「小さな空間、細い道」を先祖代々まもりつづけてきた奈良町の人の定着感というものをつくづく噛みしめるのである。これらの街は、いわゆる都市計画のマスタープランや建築法規の規制によってできた街ではない。永年にわたる不文律の掟によって、自然発生的にできたものである。そこに計画都市には見られない人間の知恵が、共同防禦という連帯意識の枠の中で美しく結晶しているのである。
 このように、内部の要因から自然発生的にできた街を「内的秩序」の街と呼び、都市のインフラストラクチヤーをつくり外側から計画的につくっていった街を「外的秩序」の街と呼ぶならば、この「内的秩序」の街「なら街」には、大都市に住む現代人が見失いがちな人間性や自然とのスキンシップのようなものをここに再発見して、いたく感銘するのである。


                        屋根こそ住居だ

 すべてのものをおおい、内部にあるものを守ってくれる。
 ルイス・マンフォードは、人間がつくった総ての物は、二つに区分する事ができると言っている。一つが道具であり、一つが容器である。
 道具の代表的なものは槍であり、槌である。それは相手に力を加え、変型させ、相手を変えてしまう。道具は、男性的なものだ。これに反し、容器の代表は壷であり、箱である。容器は内容物を保護し、貯蔵する。内容物には力を加えないが、醸造に代表されるように、相手に自然と変化を呼び起こし、自ら変わるように仕向ける。明らかに容器の性質は女性的であり、母性的だ。家も大きな容器だし、「まち」もより大きな容器と考えることができる。壁は空間に対して、合理的に働く、限定的に働く。これが壁は男性だ、柱も男性だと思う理由である。床は男女両性を具えている。床は空間の質を決めると考える。
 屋根は女性的、というより母性的だ。総てのものの上にあって、これをおおうという言葉の使われ方は、より深い意味を秘めている。
 屋根は建築における母性的なものの代表なのだ。
 「いらかの波に・・・・」という鯉のぼりの歌に代表されるように、日本の町屋の屋根の美しさは、小さく繰り返される、水平に拡がる美しさにある。特に奈良では家の背景には、常にやさしい山の姿があって、家と山が一つのセットと しての風景をなしている。建築は常に風景と響き合っている。日本の屋根は自然であり、日本に借景という美学が生れたのも、この山と建築の優しい対応・対比が理由のように思う。ならまちの「型ち」という任務をやめないでほしい。この美しい屋並びを。