文学講座 「井田源氏論に圧倒された、至福のひととき」

        片寄俊秀(理事 関西学院大学教授)


 奈良町物語館この春の文学講座は、井田康子先生による「源氏物語総論」。5月8日(土)10時からの会合には、休日であることが災いしたのか参加者がわずかに11名ほどであった。今回はなぜかレジメも用意されず、「総論」と題されたということは、先生もそろそろネタがつきたのかなと失礼な想像をしていたが、これが全くの正反対。率直に言って、聞き逃した人は全く惜しいことをしたと思う。

 東の日野原重明、西の井田康子というべきか、加齢とともに頭脳が冴え、説得力を増してくる元気な人物こそ、われわれが目指すべき生き方であることを再確認した次第である。
「碩学」(学問の広く深い人・広辞苑)という表現こそが似合う人物。その先生の謦咳に接することができた喜び。物語館での約一時間半は、まさに至福のひとときであった。参加者には、井田邸での「源氏物語論」の常連メンバーも居られたが、口々に「今日の先生のお話は、全く初めての内容で衝撃を受けた」と感想をのべていたように、おそらく未発表の独創的な見解なのではなかろうか。まったくの門外漢で、源氏物語を紐解いたこともない小生に、記事を書くようにと命ぜられたのはまことに皮肉な話だが、それだけに新鮮であり、これは源氏を一度しっかりと読まねばならぬと思わせるだけの内容であった。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」という流麗なことばで始まる源氏物語五十四帖を読み通すのは、なかなかの苦労であるが、その本質的な内容は、もう一度最後の「宇治十帖」(第四十五帖から五十四帖までの十帖は、宇治が舞台となり、光源氏の息子の薫が主役となっていて、これを世間では宇治十帖と称すると後に知った。)に、もう一度要約され、さらに主題が様々に変化して深みを増している。だから、面白いのですと井田先生は仰有る。

「源氏物語の本編では簡単に死んでしまって、死んだらおしまい、だけれども、宇治十帖では、簡単に死なない。人間は死んでもその魂だけは死なない。そして生きて死霊や生き霊に呵まれる。紫式部が、文学的な新しい境地を展開しているのです。」

「宇治十帖は、単なる続編ではなくて、人間の新しい面が開けており、そこに文学的なヒラメキが感じられる。自殺論も出てくる。人間の愛憎が姿をかえ、形を変えて出てくる。とくに男性より女性の描き方や生き方に新しい境地がみえる」「紫式部は停滞していない。作家としてよりも人間としてどんどん新しくなっているのです」「紫匂う、という言葉があるように、紫は変化するから良いのです。また、紫がはやる時代が来ます。変化して面白くなる。源氏物語は筋が通っていて、主題がさまざまに変化しながら繰り返され、新しくなっていくのです」「人間の進歩にプラスするようにという思想が源氏物語の底流に流れています。ノーベル文学賞の川端康成よりはるかにレベルが高い作家です。」「わたしは今昔物語はあまり好きではないのですが、『蛇にピアス』は今昔物語から主題を取っています。面白いですねえ。人間のやること、考えることは古来あまり変わっていない」

 お話をうかがっていて、そうか長編小説の構成というのは、主題曲があってそれがさまざまに変化しつつ全体の流れをつくっていく、いわば交響曲のようなものなのだ、と勝手に納得した。先生のお薦めは岩波文庫ですが、源氏物語のこんなページを見つけました。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/