源信(げんしん)

平安中期の天台宗の学僧浄土教家。恵心院に住したので恵心僧都(えしんそうづ)とも呼ばれる。大和国葛下郡当麻郷(奈良県葛城市當麻町)に生まれる。父卜部正親と母清原氏の子。
(注:僧都は僧正に次ぐ二番目に高い官職)
9歳で出家し、比叡山延暦寺横川の首楞厳院(の良源に師事した。良源は自己の没後の雑事を定めたなかで弟子に対し,自分の一周忌には必ず論議を行うよう書き記すほど講説論議を重視したが、そうした教えのもとで天台教学の研鑚に努めた彼は、広学竪義(こうがくりゅうぎ:延暦寺の学問行事でもっとも重要な法華経の教説に関する論議問答)に竪者(りっしゃ:義を立て問者の質問に答える役)として才学を振るった。
天廷元年(973),32歳のときのことであったという。翌年,円融天皇や多くの公卿を前にして宮中で行われた論議には、問者として、答者である南都東大寺の「然(ちょうねん)と対し、その学識は、聴聞した平親信の日記に「源信の論議、諸人、善と称す」と絶賛された。
この10年後の永観2年(984)、源信は『往生要集』を書き始め翌年4月に終えた。
この書は、まず厭い去るべき穢土(えど)と欣求(ごんぐ)すべき極楽の様を示し、次いで極楽へ往生するための実践方法つまり阿弥陀如来を念ずるさまざまな方法を示している。それは貴族や僧侶の間に流行し始めた念仏結社の動向を背景として著述されたものであり,彼自身,いくつかの念仏運動の指導者として行動している。同書はのちの浄土信仰に大きな影響を与えた。
また彼は『往生要集』を他の著述とともに宋に送ったが,これは彼の中国仏教界との交流に対する強
い関心のほどを示している。
寛仁元年(1017)6月10日臨終の床についた源信は,『往生要集』の作法に基づき阿弥陀の手につけた糸を執って眠るがごとく息を引き取った。そして彼の指導を受けた念仏結社の人々によって、その始終が記録され極楽往生の人とされたのである。
また彼の姉願西尼、妹願証尼もまた往生人とされていることも,彼にふさわしい事実として忘れられない。
日本歴史人物事典(1994.11.30発行 朝日新聞社編)から引用しました。
源信像は、日本肖像大事典(1997.1.25 鞄本図書センター発行)からコピーしました。
左の写真は吉田寺本堂にある阿弥陀如来像(重要文化財、高さ:5.15メートル)、源信の作と言われています。
(絵葉書からコピーしました)