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宝蔵院流高田派槍術 歴史 流祖宝蔵院覚禅房法印胤栄(ほうぞういんかくぜんぼう ほういん いんえい)(1521〜1607)は南都興福寺の僧。武芸を好み、柳生但馬守宗厳と共に上泉伊勢守から刀術を学びましたが、一方、諸国修行中の槍法の達人、大膳大夫盛忠を坊中に留め槍の修練に努め、ついに猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌(十文字)槍を工夫し、宝蔵院流槍術を創めるに至ったと伝えられています。そして後日、高弟中村直政にその正統を伝え、さらに直政からその妙術を承継したのが高田又兵衛吉次です。 高田又兵衛は後に小倉藩に仕え、以後子孫代々これを相続しました。また、その高弟森平政綱ら三名が江戸に出てその槍法を広めたので大きく世に顕われるに至り、幕末の講武所時代多くの宝蔵院流の師範がいました。 その後明治大正期の大家山里忠徳先生が、大正7年暮、第一高等学校撃剣部にその槍合わせの型を伝え、矢野一郎、横田正俊先生や元最高裁長官・石田和外先生がこれを伝習して、昭和51年に石田先生より表・裏・新仕掛三十五本を西川源内先生に伝授され発祥の地奈良に里帰りしました。さらに平成3年6月に鍵田忠兵衛氏に第二十世を継承され今日に至っています。 |
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| (* 槍柄部を短く写した合成写真です。) |
特徴 この鎌槍は、突くだけでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落す、摺り込む、など攻防に優れ、当時としては画期的な武器でした。詠歌にに「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 何につけてものがれざらまし」との歌が伝えられているほどです。また、甲冑をつけた時の体勢として重心を低く構え、突くところは前面(まえめん)、裏面(うらめん)、前胴(まえどう)、股(もも)などです。 |
| 県政だより「奈良」2003.2.1 |
| 奈良の昔話「宝蔵院と武蔵」 |
| 連載「宝蔵院流槍術」 |