宝蔵院流高田派槍術

歴史
 流祖 宝蔵院覚禅房法印胤栄(1521〜1607)は南都興福寺の僧。武芸を好み槍の修練に努め、猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌(十文字)槍を工夫し、ついに天文22(1553)年正月12日払暁、摩利支天の化身、成田大膳太夫盛忠から二箇の奥儀を授けられ、宝蔵院流槍術を創めるに至りました。さらに、柳生但馬守宗厳と共に上泉伊勢守秀綱から刀術を学び宝蔵院流槍術を大成させました。
 そして後日、高弟中村尚政にその正統を伝え、さらに尚直政からその妙術を承継したのが高田又兵衛吉次です。高田又兵衛は後に小倉藩に移り、以後子孫代々これを相続しました。そして、その高弟森平政綱ら三名が江戸に出てその槍法を広めたので大きく世に顕れ、やがて全国を風靡しその弟子4000人と伝えられるにいたりました。また幕末の幕府講武所には多くの宝蔵院流の師範がいました。
 そして明治大正期の大家山里忠徳先生が、大正7年暮、第一高等学校撃剣部にその槍合せの型を伝え、矢野一郎、横田正俊先生や元最高裁判所長官・石田和外先生がこれを伝習して、昭和51年に石田先生より表・裏・新仕掛三十五本を西川源内先生に伝授され発祥の地奈良に里帰りし、さらに平成3年6月に鍵田忠兵衛が第二十世を、平成24年1月に一箭順三が二十一世を継承し今日にいたっています。

(* 槍柄部を短く写した合成写真です。)


特徴
 宝蔵院流の槍は、通常の素槍に対し鎌槍と称する十文字型の穂先に特徴があります。この鎌槍を活用した宝蔵院流槍術は、突くばかりでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落す、摺り込む、叩き落す等の攻防に優れ、当時としては画期的な武器で「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」との歌が伝えられているほどです。
 また、甲冑をつけた時の体勢を想定して重心を低く構えるところに特徴があります。槍で突くところは、前面、裏面、前胴、腿などがあります。

奈良の昔話「宝蔵院と武蔵」
連載「宝蔵院流槍術」



2017. 7.21
2003.02.08