宝蔵院覚禅房法印胤栄
ほうぞういん かくぜんぼう ほういん いんえい

宝蔵院覚禅房法印胤栄

突けば鎗 うてば鳶口 ひけば鎌 何につけても のがれざらまじ


南都の僧なり、刀槍の術を好みて、上泉(かみいづみ)伊勢守に就て是を学び、そのわざに達しける。ここに大膳太夫盛忠(だいぜんだいふもりただ)といふもの槍法に通じければ、胤栄これを駐(とど)め、師として日夜励獅ン習ひけるが、竟(つひ)に其妙を得たり。然るに熟(つらつら)おもへらく、われ釈門の徒にして武術を学ばんは、本意にあらず、わがなき後といへども寺中に武器あらば、またこれを好むものあるべし、ぶきのなからんにはとて、寺中に収むるところの武器を、悉(ことごと)く中村某といふものに与えたり、慶長年中、八十七歳にして没す。

武稽百人一首(笠亭仙果編)


 宝蔵院流槍術の流祖・胤栄は、大永元年(1521)、興福寺の衆徒(しゅと)、中御門(なかみかど)但馬胤栄の次子として生まれました。中御門氏は天武天皇の第四皇子舎人親王の後裔で、坂口氏と称していました。その祖坂口武蔵宣胤は、大剛勇猛、常に武術を好み、世人は荒武蔵とよんで恐れられていました。元弘元年(1331)元弘の変に後醍醐天皇に味方して、笠置城で抜群の功をあげ、天皇より御剣一振と中御門の家号を賜りました。
 以来、六代胤定は、木津の鹿背山(かせやま)城に居住し、城洲岡田郡加茂庄山上城主満田(みつだ)左衛門尉英幸の女を娶(めと)りました。ここに後日、宝蔵院流継承に重要な役割を担う満田家との密接な関係が生じたのです。その子が七代胤永。胤永は南都草小路に屋敷を持ち、次子胤栄を宝蔵院に送りこんでその作外(いえもと・家元)となったのです。
 胤栄は幼少の頃から僧兵以来の伝統的武術である長刀(薙刀)・長巻など長道具の繰法に習熟したと考えられます。そこへある日、回国修行の兵法者・成田大膳太夫忠盛が現れました。春日大明神所務の清僧、大西木春見(おおにしきしゅんけん)ともいわれる神道(しんとう・新当)流の達人です。神道流は剣法・長刀・槍法など総合的兵法でありましたが、忠盛は長刀・槍を得意とし、これが胤栄の眼を開かせ、十文字槍に奇妙のあることを思い出し創始させたのでした。胤栄33歳、天文22年(1553)正月12日の払暁、摩利支天の化身である成田大膳太夫忠盛から二箇の奥儀を授けられたと伝えております。
 さらに永禄六年(1563)、新陰流上泉伊勢守信綱の一行を奈良に向かえ、知友柳生宗厳とともに弟子入りし、永禄八年の春、再び柳生を訪れた信綱を引き留めて教授を受け、宗厳は一国一人の印可を、胤栄は九箇までの指南を許されました。
 宝蔵院流槍術には神道流と新陰流を下地として構成されていると考えております。こうして大成された宝蔵院流槍術でありましたが、天正13年(1585)、羽柴秀長が郡山城に入り、国中の寺社・国衆に対し、差出を命じ、同時に比叡山末寺の多武峰に対しては、一切の武器の提出を命じました。これらは寺門に対する圧力ともなり、武術稽古を差し控えねばならない世となったのです。
 慶長元年(1596)、胤栄75歳は法印に叙せられました。ここへ金春太夫安照から子息七郎氏勝に伝授願いたいとの申し出を受けます。家康にも影響力のあった能・金春家からの熱望に、75歳の胤栄は再び手練の槍を執り、槍術稽古が始まりました。このころから胤栄のもとには門人も増え、「その法を伝える者、群を作し、隊を作し」であったと伝えられています。
 慶長11年(1606)4月19日、柳生石舟斉はこの世を去り、翌12年(1607)8月26日、胤栄87歳にて遷化しました。日本を代表する剣と槍の巨星が相次いで奈良からこの世を去ってしまいました。
 胤栄とその一門の墓は奈良市白毫寺町にあり、今なお大切にお祀りいたしております。
連載 宝蔵院流槍術「宝蔵院覚禅房法印胤栄」


   
201. 1.20
2003/02/11