【sanity】

 

 青赤に腫らせた顔を闇に紛らせ、無邪気に寝息をたてる彼のこめかみに、水戸洋平は半ばまで芯を焼いたタバコを近づけた。
 眠る少年の額の上に、ちらつく産毛までその髪と同じに色は紅く、限界まで接触を試みる赤点にちりちりと削られても、その金糸はうす紅い色のままだった。そして、こうまでしても彼は静謐に囚われたままだ。
 豪放磊落を地で行く素顔も成りを潜めてベッドに沈むその姿は、それでも紫煙の奥からそれを見つめる少年に“死んでいるようだ”とは思わせなかった。

「凶暴なくらい可愛い顔して寝るのな」

 呟いた洋平は口元に笑みを湛え、無意識下の少年を照れもなく愛しそうに見つめた。歳の離れた兄弟か、もしくは恋人にでもやるように。

「起きたらもう一発やっとこうと思ったのに」

 穏やかな表情で物騒なことを告げてカーペットから立ち上がる。洋平の典型的なボクサースタイルは、上半身が露な為、殺伐とした打撲傷を薄闇に際立たせていた。更に視点を上昇させると、特徴の顕著でない左右対称に近い端正な面にも、寝ている男と寸分も違わず同様に腫れている。薄い唇から溢れた血液が、そこに留まって凝結していた。



 

 水戸洋平が桜木花道と知り合ったのは人生の中のいつでもなかった。

「それっててめーだと思うんだよな。なんとなく」

 まさしく気付いたら一緒にいたといっていい。洋平よりゆうに頭一つ分は高い身長がいつも隣にあったせいで、洋平は若くして身体的コンプレックスには悟りを開かざるをえなかった。
 具体的でないいつかの時代、授業の合間の休み時間に、花道はその長い足を小さく見える机にどっかと乗せて印象的な一重の両眼で真っ向から洋平を見据えた。その瞳の強さ以外胡乱げにしか洋平は覚えていないが、2人はまだそれほど親しくなかったように思える。お互いを行き来する仕草をいちいちワンテンポ置いて。距離を取ることで信頼を図っていた。
 このとき初めて、花道がそれをやらずにすらりと口走ったので、洋平は切れ長の目を無理やり丸くした。

「…俺ぇ?やめといた方がいーよ」
「なんで」
「なんでも。俺友達甲斐ないと思うし」
「馴れ合いなんて思ってッからいつまでもこんな感じなんだ!」
「はいはい」

 真紅の髪の友人は意外と熱血路線が好きなのか、珍しく正論を洋平にぶつけてきた。それに頷くことをしてやりたかったが、それでも洋平は変化のない自堕落な姿勢で受け流す言葉を口にした。

“生涯の親友っているとすればさ―――”

 不毛な掛け合いの始まりはたしかこんなだったと思う。生涯ってそれの長さの距離など測りようもないのに、少年は見えもしない夢を語りたがる。自分から話を振るのが下手な洋平はだから花道に付き合ってやった。今日はなし崩しにつるんでいる3人組もいない。サシで会話をするのはまだ数回目といったところだった。だから洋平は、平坦な口調で告げられた花道の台詞など信じてはいない。

「…生涯の親友ってそんな今すぐ必要なの?」

 花道の公言に倣って、洋平も淡々と疑問を口にした。彼が何を求めているのかわかりようもなかったが、唐突に放たれた意味深な台詞を、すらりと聞き流せるほど大人ではなかった。
 花道は刹那、宙に視線を彷徨わせたが、すぐに深いブラウンの瞳を底光りさせて頷いた。

「うぬ。俺の惚れた女がそいつの彼女でもいいって思えるくらいの生涯の親友がいたら楽だ」

 ―――ひとつ。説明する必要があるとすれば、洋平には今付き合っている彼女がいて、その彼女はそれこそ周りが洋平には勿体無いと囀るほどに清楚で良い女だった。告白をしたのは彼女の方で、交際を始めたのが2ヶ月前、更にその頃にはもう花道も他の友人らも全員でつるんでいたのだから、祝福の一つぐらいしてくれても良さそうなものだと洋平は思っていた。が、この様子からしてみると花道もどうやら彼女に惚れていたらしい。花道と関係しだしてから、洋平が彼についていち早く学んだことが「意外に惚れっぽいな」だったのだから。回りくどい台詞でごまかしても、感情の在り方が手に取るようにわかってしまう。仮に洋平が「生涯の親友」でも、やはり彼はこのような八つ当たりをして来たに違いないとも思う。それとも花道と洋平が背中を任せられる関係でもあったら、先述その通りにきっぱり身をひくつもりか。
 洋平は机に頬づえをついて、わかりやすく嘆息した。

「…中学入ってから惚れたの何人目?」
「覚えとらん」
「…全力で奪いにこないの?」
「迷ってる」

 桜木花道について。2番目に理解したのは「惚れっぽいわりにいちいち真剣だな」だった。一歩間違えればタラシのレッテルを喜んで背中に貼られてしまう。しかし彼には普通あるべき下心が一見したところでは皆無だった。もっとも洋平は花道に告白された経験はないので100%そうかというと首を傾げるが。けれどもそれに近いだろう、彼の恋愛観は一緒に登下校レベルだと高宮あたりに聞いたことがあったのを思い出す。
 そして花道の異性への惚れ方に時間は要らなかった。野生の獣のように直感で適切だ。何の迷いもなくピンポイントに極上の素材を見つけてしまう。誰もが振り向く素敵なアノコ。だから理由も必要ない。虫がついていなければ手に入れる為、髪の毛と同じくらい顔を真っ赤にしながら努力をし、そして洋平みたいな虫がついているコに対しては―――

「あきらめらんない?俺もアキちゃんも困っちゃうよ」
「すまん」

 洋平の目の前でふんぞり返っていた巨体を少々萎縮させ、桜色を夕闇で深めたようなリーゼントはかくっと俯いた。諦めようと努力してくれる。真摯な姿勢は素晴らしい。「迷ってる」曰くは、その惚れた彼女のことだけでなく、洋平のことも真剣に考えていてくれる表れだ。洋平は彼を、我侭な奴だ、と一蹴したい気分も無きにしも非ずだったが、花道にはこれが精一杯なのだろう。思わずその燃える様な恋愛に対しての情熱を、カノジョと引き換えに分けてくれと言いそうになってしまったが、それでは自分まで最低になってしまう。
 
「じゃあ決闘しようか。定番の河原とかじゃだせーから、どっかでひっそりと」
「ぬ?」

 ひらめいて口走った案に、花道は形のいいシャープな眉をくゆらせた。椅子を跨ぎなおして洋平に向き直る。

「俺のカノジョってわかりきってんのに、まだ諦めらんねぇってことは、何かもう決定的なきっかけでもねぇとふっ切れないってことだろ?安心しろ俺がぶん殴ってケジメつかせてやるから」

 自信たっぷりに口角を吊り上げて、洋平は首を掻き切る仕草を見せた。目の前の赤い悪魔に対して。人の恋路を邪魔しようって輩なんだから、こんな形容でも許されるだろ?
 その赤い悪魔にしてはマイルドさも残す表情をした花道は、洋平の表情を真似てそのまま、ひょいと身軽に洋平の前に降り立った。見上げると本当に中学生らしからぬ巨人だ。帰宅部や不良をしているには勿体無いと洋平が感じるくらいに。

「そりゃつまり、洋平と殴り合って俺が勝ったら、秋菜さんが俺の彼女になるチャンスってわけかね?」  
「万が一俺が負けたらだけどね。それにアキちゃんが嫌だっつっても手を引けよ」
「おっしゃ乗った!天才に不可能はないからな!そして男にも二言はないな!?」
「ないよ。俺が絶対勝つし」

 洋平と花道がこんなにも長く会話を続けたのは初めてだったろう。冷涼としたその内容に似つかわしくなく、2人ともが満ち足りた表情をしていた。傍目に伺えばそれは親友同士のじゃれあいにでも見えただろうか。彼らは互いの返り血にまみれて大地に立つ自分らを、絶対的な自信と共にイメージしていたのに。




 
 高架の下の破れきったフェンスに囲まれた平原は、思ったよりも川に近くて洋平にため息を吐かせた。傾いた陽のバーミリオンが反射する水面を視界に入れてしまうと、ソリッドな気分が殺がれてしまう。まだ自分が未熟な証拠だろう。洋平が野郎と張るときはいつも、陽光も川のせせらぎも入り込めないような掃き溜めが舞台だった。花道が良い場所があると放課後案内したそこは、ちょっと健康的にすぎる。
「人がいねぇからよ。安心してやれるぜ」
「もうちょっと高架の下の影んとこ入らねぇと丸分かりだっての」
 まるで小学生からそのまま成長した、宝探しでもする様な花道の行動に、洋平は辟易して学生鞄をフェンス脇に放り投げた。平原の上の路を走る重車両の轟音を聞きながら、花道と洋平は何メートルか距離を置いて対峙した。学生服が土埃に変色するのを嫌ってか、花道がざっとそれを脱ぎ捨てるのを見て、やはり洋平はいいガタイしてんなコイツと、多少萎えていた気を引き締める。
 負けるわけにはいかないのだ。何をどうしても。
 この決闘は“なかったこと”にしなければならない。賭けの対象にされただなんて優しい彼女が知ったなら、俺のプライドは10代前半にして瓦解するのだ。

「洋平は脱がなくていいんか。俺本気だぞ」
「だから俺が勝つんだって。そっちこそカッターシャツは血ィ目立つぜ?」

 資本のカラダと惚れた女、放課後の貴重な時間。なんでこんな大切なものばかりを彼に賭けなければならないのかと、洋平は舌打ちをしつつ大地の感触を確かめた。この野原の草足は短く晴天続きで湿ってもいない。十分に普段の力が発揮できるだろう。花道と洋平がサシでやりあったことは一度もなかったが、何故か洋平にはこれが最初という感覚はなかった。
―――やっぱ俺は、こいつが嫌いなんだろうか。
 何度も殴り合いをしていると錯覚を起こすくらいに。確かに何もかも自分と正反対な価値観や行動様式が、ひどく気に入らなかった。そして臆面もなくのたまえる、自信に溢れた口上が変に羨ましかった。
―――自分で自分のこと天才だなんて、生物の何%が口に出来る?

「とうっ」

 先手必勝を賭けたのは洋平の思うところの天才だった。長い腕で鎖骨の辺りを抉ってこようとする。確実に相手にダメージが加えられるが、自分の拳の痛覚も悲鳴を上げる諸刃の剣。花道はそれを瞬時にかわした洋平を、炎のちらつく大きな目で追走した。
 洋平はその花道の視線の先を追って、そこから死角になるように掌底を繰り出した。真正面からの突きでも死角は出来る。視線がかち合っている最中なら、顎の下辺りを狙うのが巧いやり方だ。
 洋平が全体重を載せたパンチは、それでも花道の顎をしゅっと掠めただけに過ぎなかった。図体がでかいくせに身体が柔らかいらしい。それでも驚いた風の好敵手はバランスを崩して、追撃した洋平の側面蹴りをわき腹の辺りに喰った。
「ぐぇ」
「惜しいッ」
 呻く花道に余裕は見せず、クリンヒットしなかった蹴りに舌打ちしながら、洋平はもう一度靴底で花道の腹を蹴った。思った以上に強い衝撃が踵の腱に来て洋平はわずか顔を顰めたが、昼食に惣菜パンを5個も食う胃袋の持ち主なら大丈夫だろう。反撃を警戒して、水戸は吹っ飛んだ花道から距離を取って腰だめに構えた。

「ふんぬ〜。今のはキタ…」

 勢いよく立ち上がったものの、腹の辺りを押さえて唸る花道は、沈みかけた太陽より遥かに勝る眼光で自分より小柄な男を照射した。小柄な割りにいちいち攻撃が重いのだ。いや、小柄だからこそそのような攻撃を身につけざるを得なかったと考えるべきか。飄々として大人びた少年がどれだけの努力をして自分に匹敵する力を手に入れたのか。花道は低く呻きながら、ふと湧いた思考を関係ないと振り捨てた。
「…タフだなぁお前。思い切り腹蹴たぐったのに、声出せてるし」
「舐めんなよコゾー。俺は愛のために負けるわけにはいかんのだ!」
「愛って…略奪愛じゃねぇか」
「俺のほうが先に秋菜さんを好きになったんだ!洋平の方が横恋慕だ!」
 そんな無茶苦茶な。と洋平が肩を落として呆れる前に、花道はダッシュをかけて洋平に詰め寄った。しかし会話の最中でも決して油断はしていなかった洋平は、ひとつ短く息を漏らすと、横っ飛びに地面を蹴る。そのまま再度踏み心地の良い地面を蹴って、花道の顔面に拳を叩き込んだ。
「ぶっ」
「わり。手加減してねぇ」
 洋平の呑気な台詞に忠実に、花道の長身は草むらに鈍い音を立てて沈む。空気に鮮烈な赤がぱっと散って、それに少しだけ罪悪感が混じった。止めを刺すかと自衛的な警戒は怠らず、学生服にも纏め上げた髪型にも乱れは目立たない少年は、静かに倒れた巨体に忍び寄った。
 


―――おもしろくねぇ。この天才桜木が一方的に敗北を喫するなど、今まで一度たりともなかったのだ。いや、あってはならん。
 高い鼻梁の奥と唇の端から生命の元素を垂れ流しつつ、花道はふつふつと怒りを募らせていた。唇の鮮血を指で撫で、そのまま頬にまで紅のラインを走らせる。自分の血液の匂いも面白くなく。花道はしばしそのまま微動だにしなかった。やがてゆっくりと草を踏み分け近づく、足音の存在には気づいていても。
―――洋平、怒ってんよな。ノーメンみたいな顔してるから表面ではわかんねーけど、絶対あれは切れてんな…
 ぼんやりと脳内で感想を吐き出してみると、不思議と全てが冷却された。思考回路が冷静に、クリーンに。この日の最初まで、もしくはずっと前まで記憶が巻き戻って、花道の中でただ一人の男の姿が形成されていく。射る様な切れ長の眼差し、無駄に大人びた微笑。
 水戸洋平。花道が彼を語ろうと思えば一言で足りる。
 “意外にアツくて負けず嫌いだな”で十分だった。

 だから、彼に勝つという目標はカノジョのことを抜きにしても、花道の闘争心を奮い立たせた。

 全霊を賭けた聴覚で近づく音声を拾って、これ以上ないタイミングで倒れたまま長い足を振り上げる。地面と平行にそれを薙げば、ふくらはぎの裏面で確かに骨ばった感触を花道は捉えた。それを確認する前にもう猫のように敏捷に身体を起こす。 

「ぅわっ!?」
 珍しく少年らしい甲高い声を上げて、洋平は見事に芝生に背中から落ちた。足払いには警戒していたはずなのに、スピードにものを言わせられた。焦って地面に片腕を着いてバランスを取ろうとしたが、その手をまた横から伸びた大きな手に払われ、完璧に地面に縫いとめられる。
手首を両方握りつぶされそうな程に締められてから、下半身で抵抗を試みてももう手遅れだ。
―――まずいっ。
 それはもう完璧に。マウントポジションを取られてしまっては、洋平の行く先など決まっている。病院か地獄かそれっぽいところだ。さっと洋平の顔色が変わった。当人ですら気付いていなかっただろうが。
「離せッ!!」
 出会ってから今日に至るまで―聞いたこともない洋平の凶暴な口調に、花道は彼を見下ろしたまま僅かに目を細めた。
―――ああ、なんかオレ、触れてはいかんとこに触れちまってるようだ。
 微かにでも押さえつける力場を緩めれば、凄まじい殺気を放つこの生き物は、とんでもない反撃を返してくるに違いない。初めて感じる類の恐怖に、表情には出さなかったものの花道の額からとめどなく汗の珠が滴り落ちて、洋平の引きつった頬の丘陵を伝った。

「っら、どけぇ!!」

 薄い腹の底から引き攣れるようにして叫ばれた洋平の声に、花道は血管が浮くほどに馬力を込めていた指先から思わずそれを抜いてしまった。刹那の後にはすでに、洋平の一見細い指は花道の肩をへし折る勢いで掴み返し、振り上げた硬い膝で上になったまま花道は腹を叩かれた。
「ごほっ!」
 むせる。胃液が逆流するのをかろうじて堪え、止まらない脂汗に背中の熱を持っていかれつつ花道は心中で悪態を吐いた。
―――腹ばっか狙うんじゃねぇ!俺にガキが出来てたらどーしてくれんだ。
 保健体育の授業などまともに聞いてはいない彼の常識内で、あらん限りの敵意を持って花道は地面から洋平を睨めあげた。花道を振りほどくのに消耗したか、連撃を忘れて、正気と狂気の境界線を彷徨っているような瞳で、洋平は花道を初めて邂逅した他人のように視る。
 花道にとってそれは、今までで一番面白くない事柄だった。

「っは、…てめー、秋菜さんにも、そんな面、晒すんか」
「…なにを。まさか…」

 あからさまに痛みを堪える低い声に、冷笑を口元に浮かせつつ洋平は返した。この場に似つかわしくない程平坦に。冷淡に。情熱を賭けて、それを守るために自分は戦っているのに。いたのに。

「アキちゃんに、俺が、殴りかかるわけねーだろ」
「暴力の話じゃねぇ。そんな―――誰にも関心が無い様な無表情で、彼女を見るんかってんだ」

 荒い呼吸交じりの花道の言葉が、洋平には全く理解できない。鏡も無いのに、自分で自分の表情など判るわけが無いだろうが。
 無表情のレッテルを貼られた少年は、そのまま蹲る少年の前に歩み出てしゃがむと、花道のほつれた長い前髪を掴んでぐいと空を仰がせた。
「てっ」
 白い喉に浮いた骨のきしみも気にせず、彼はブラウンの双眸に映る“洋平”の表情を凝視する。息のかかる限界まで顔を近づけても、やはり洋平には判らなかった。

「…お前の方が、ヒデー顔」

 自分で痕をつけた花道の顔に苦笑して、洋平は彼から離れた。無抵抗にされるがままだった花道に、もう反撃の余力は無いだろうと背中を向けて。
 手負いの野生の獣は危険だと知っていたのに。それが紅いたてがみの猛獣ならなおさらだ。
 その油断が、洋平が表面上でしか冷静ではなかった表れだった。洋平よりも彼を理解っていたその獣は、嵐の前の静けさで学生服の背中に牙を向いた。

「―――!!」
「―――ッ!?」

 人間らしからぬ咆哮に、いくら俊敏に振り向いたとて、洋平が最初に視界に入れたものは、迫り来る大きな拳だっただろう。とっさに顔の前に腕を交差で組んでも、次に来た衝撃の強さに、洋平は静かに命が削れる音を聞いた。





―――気がつけば、あたりは闇と静寂に沈んでいた。遠くにちらつく街灯の光は、自分らが立つ場所になど当然届かず。腫れた目の淵で追う世界は異常なほどに狭かった。
 そして独り、闇の庭に立つ男は、自分が何者なのか―どちらなのかを思い出そうとした。散々揺さぶられて叩きつけられた頭蓋の中身は、下水の底のように混濁している。殴り合っているうちに魂まで交換してしまったのか、ありえない状況での同一化の可能性に、少年はせせら笑った。
 落ち着いて、輪郭をなぞれ。記憶を手放さないように辿って、視界に映る、ほつれた前髪の色はなんだ?―――夜の色彩?間違いなく?確認。よし、自分は水戸洋平だ。

 身じろぐたびに悲鳴を上げる図体を持て余したまま、胡乱げに洋平は周囲に視線を巡らせた。中途半端な長さの芝生に横たわる、自分をこうした存在を探さねば。ガキのくせをして見透かすような目線を放つ、あの深い茶色をどうにかしないと自分は本当には落ち着かない。
 漆黒の中手探りで、地面に冷たくなった身体を捜した。感覚の微妙な指先に触れたのは、その冷たさの原因であるカッターシャツの端だった。夜目にもなんとなく判る、嫌な色に濡れている。
―――ほら見ろよ。血が目立つって言ったじゃないか。
 そこから身体の線を辿ると、浅く呼吸して上下する胸板が判別できた。それであたりをつけて、今度は自分が彼を押さえつけるよう四肢に乗り上げる体勢を打つ。
 かろうじて整った原型を留める顔に、右手を触れるか触れないかの距離で翳した。
 そのまま低い声で宣言する。

「俺の勝ちだな」

 途端。洋平の右手首はぱしんと軽い音を立てて長い指に捕らえられた。最も、その“途端”の間には、洋平も相手の口内に左手の先を纏めて突っ込んでいたのだが。

「往生際悪いぞてめぇ…」
 引きつった頬を痙攣させつつ、左手親指で花道の口内を蹂躙する。窒息させてやろうか。溢れる唾液に辛そうに呼吸を紡ぎ、なお反抗的な瞳で花道は圧し掛かる少年を貫いた。
「ふ…まらやれふ」
「どの口で言う」
 呆れて喉の奥を指で突いてむせさせると、洋平は花道の口から手を引き抜いた。今更ながらに両の手首に、まがまがしい充血型がついているのに気付いて眉を顰める。
 この恐ろしいほどの強さが、かたちを変えて全て彼女に注がれるなら、彼は自分以外の何に負けることがあるだろうか。手に入れた彼女だけ見て、きっと洋平も高宮のことも忘れて、世界の王のように笑うのだ。桜木花道はきっと、一途で過去など顧みない、孤独な天才に違いないから。
 互いをけん制しあう、ぶつけた2対同士の片方に、じわりと涙の珠が浮かび上がってもう片方は狼狽した。押し倒し見下ろす先で、静かに涙を流す花道に洋平がかける言葉は無い。

「洋平はズルイ。」
「…俺が先に好きになったの」
「でもズルイ。俺も好きだったのに。告白しようと思ってたのに…」
「女々しいぞお前」

 洋平は微笑して花道の広い額を弾いた。攻撃性の滲まない行為。親友同士がふざけあう様な、優しい強さで。無意識にしたそれに洋平が気付いて軽くうろたえる前に、下になっていた花道は目玉をぐりんと回して気絶した。喋るだけでもいっぱいいっぱいだったのだろう。ようやくギリギリの勝利を洋平は実感して、深く深くため息を吐いた。安堵の色が最も濃い。
 しかしはたと少年は額を押さえて、苦く呻いた。

「俺に家まで運べっていうのかよ…?」




―――
 硬質な色を灯した狭い部屋で、隅のベッドからはみ出る長身の寝相を何度も直しつつ、洋平はペットボトルのポカリを煽った。唇の引き攣れる痛みに軽く息を漏らす。もう片方の手でいじっていたタバコを半分も吸わないまま灰皿に潰すと、ベッドサイドの洗面器に満たされた水を、熱を吸い取ったタオルにもう一度しみ込ませて、青白い額にべしゃりと押し付けた。
 その温度の変化にも少年は目を覚まさない。セットしない前髪は、身長の高い彼がやはりまだ子供なのだということを示すアイテムとなっていた。
「手間のかかる…」
 イライラと呟いて、洋平はシーツから床に垂れる長い足を乱暴に寝台の上に収めなおした。もう一発無邪気な面にいれとこうかと本気で考える。
「こういうとこが…」
 …俺もまだまだガキってことなんだろうな。花道が戦闘中に放った言葉も含めて考えて、洋平は膝を抱えて床に座り込み自嘲した。ひんやりと冷たい空気は沸騰した思考を冷ますのに相応しい。
―――誰にも関心が無い様な無表情で、彼女を見るんかってんだ。
 嘘偽りの無い極限の表情がこれなら、自分は酷い人間に違いなかった。優しい女の子とお付き合いするなら、自分は現段階であまりにそれに向いていない。親密になればなるほど不安がらせる要素が濃くなるなら、イイ思い出に留めて早いうちに切って然るべきだった。
「なんで気付かせるかな…」
 薄情な人間だということに。オブラートの柔軟な表情の下には、張り付いたような無関心が巣食っていることに。洋平はそれに気付かないフリを通して、それでもどこかに後ろめたさを燻らせていた。十数年間で暴かれたのはコレで最初、そして多分最後。

「俺も好きなんだぜ秋菜さん。間違いねぇよ。好意無しに付き合うなんてオトナな真似は、いくら俺でも出来ねぇもん」

 言い訳のように、静かな寝顔に呟く。手当ての著しい顰め面でも、光源の無い部屋で浮かび上がるそれは神聖さを洋平に感じさせた。

「だからもう少しこのままでいさせてくれ。胸の底が痛いんだ。このままでも別れても痛いままだろうけど、この痛さを判ろうとしないと、このまま成長出来そうに無いから」

 情けないほどの懇願を交えて、眠る花道などに洋平は懺悔した。そう、懺悔だ。こちらがひくほどに情けなく一途に、傲慢に我侭になれる花道になら、洋平だって全てを晒してもいい。
 遠慮会釈も無く、自分が自分で居れる相手がいるとすれば。
 そう、正気の淵で自分の手をこちら側に引いてくれる、そんな相手。

「…それってお前だと思うんだよな。なんとなく」

 言ってから、柄にも無く洋平は白い顔を瞬く間に赤面させた。「あー…」と戸惑ったように唸りつつ、タバコを手早くつけて、吸って、むせる。
 咳の音にか、洋平の背後の花道が寝返りをうとうとしたので、起床するのかと洋平は肩をびくつかせて振り向いた。
 しかし彼の邪気なく閉じた瞳と唇から漏れた声は、覚醒の前兆とは到底思えない代物で。

「ん、よーへー…コロース…」

 思わず洋平は噴出して、そのまま少し笑い続けて、煙草をくわえ直して花道を見下ろした。
 あまりに平和な寝顔に、洋平の枯れる寸前の悪戯心が刺激される。

「つれないこと言うなよ―――なぁ相棒」

 洋平はさらりと奏でると、花道の端正な表情の一角、紅の巡りを感じさせる唇に軽いキスをぶつけた。
 薄目に映る、裸の胸の中身が一瞬固まってしまったような気がして、洋平は可笑しかった。





こんなブチ切れた洋平さん書いちゃってもいいのだろうか。オロオロ。
本編でのガチンコ強さランキングでは花道>鉄男>洋平…な感じでしょうが、和光時代に一遍くらい洋平が競り勝っててもいいよね…ね…。つっぱることが男のたった一つの勲章とくらーな燻し銀水戸洋平を狙ってみましたが、また微妙な感じで打ち切りです。萌え度に反して洋花は難しいです。読み専でいたいです。