地球は蒼穹の密室


 夏なのに彼の肌は日に灼けない。
 きめらかな肌を滑る汗の珠の数も少なく、清田はときどき彼が何者なのかを疑う。
 ―――きっと何者でもありはしないのだ。

「ねぇ、信長。触らせて?」

 たとえ、彼が未知の生物にでも触れるかのように自分の頬や唇や首筋に指先を近づけてきたとしても。彼は人間で同じ性別を持つものなんだからその感触を知っているはずなのに。清田の汗でしっとりとした焼けた肌に手を置いては、彼は興味深げにその感覚を楽しんでいるようだった。

「くすぐったいっすよ。神さん」

 16歳の少年はそう言って照れたように笑った。涼風に長めの黒髪が梳かれ、カッターシャツの裾がそよぐ。神さんは清田の声を聞いてからその長細い指先を彼から離した。

 夏なのにオレンジ色の体育館に閉じ込められて。青空をまったりと見遣るのは、体育館の窓越しにかすでに夕焼けにとって変わろうとしている時だけに許された。体育会系の常であるランニングの時にはそのような余裕などない。一度清田が呆けたように上空を見上げながら走り、自販機に激突したのは先輩方の笑いの種になった。海南大付属バスケ部のルーキーセンセーションとしては大いに傷付くところだ。

 そのバスケ部の練習も、明日の練習試合を考慮して珍しく午前中に切り上げとなり、久しぶりに快晴の下、清田は彼と肩を並べて歩くことになったのだ。神は痩せてはいるが清田よりも天に近い長身で、一緒にいて会話をすると少し清田が見上げる体勢になる。少し妬ましくそして無邪気にかっこよいと清田は思っていた。

「神さんは身長高くていいすねーっ。俺も高い方だと思うんだけど、この世界俺より高いヤツの方が多いんだよな〜」
「でも片手のダンクが出来るには十分じゃない。それに小さい方が小回りも利いていいよ。きっと」

 神がそう笑いながら言ったので、清田は嬉しくなって少し先輩の方に身を寄せた。兄のいない清田は、無意識にそれを彼に求めている。甘えたがりな少年は、170を軽く越える身長には似つかわしくないかもしれないが。
 次の瞬間、神までもが意味の通らないことをしたのも清田はただ甘受した。
 高い身長で包み込むように抱きしめられたので。

「…あのっ、神さん?な、なんすか?」
「この身長で一番得したって思うのは―――」

 強く。

「こういう風に抱きしめるときに都合がいいってことかな」

 人通りの少ない田舎のあぜ道とはいえ、同性同士の密着という事態に清田はうろたえた。スキンシップは自分の専売特許だったはずなのに。あっちからこられると、神の白い肌が女の人みたいに見えてどきどきする。細いけどしっかり筋肉が付いていて、神なのにすけべな妄想をしてしまったことを清田は恥じた。
 ―――嫌われたくねーなぁ。

「じーんさん。なんか…どきどきするからやめてくださいよもー。照れるっス」

 女の人みたいとか言ったら、いかな温厚の化身である彼も傷つくだろう。笑って密接を剥がした清田は少しよろめいてカバーのしていない溝に落ちそうになった。
「おっと」
「どきどきするって…清田も?」
「え?」

 かぶせられた言葉に、体勢を立て直してから振り向いて目を見張ってしまった。神の視線はまぁるい目の形に反比例して清田に鋭い。獲物を狙う、鴉の双眸のビー玉に似ている。それから神は珍しく戸惑った表情で顎に手をやりながら呟いた。

「俺が清田に触れるのは―――邪なスキンシップだと思うよ。俺、清田に惚れてるんだもの」
「ええ!?びっくりっす!!」

 両手を挙げて驚きを表現する清田を、そんな色気のない仕草はしてほしくないなぁと言う目で神は見つめてみる。でも気持ちはわからないでもない。自分もそうしたいほど仰天したのだ。この指先が、彼を、清田を触りたいなんて思っていると気づいたとき。

「神さん、それはヤバイっす!惚れてるなんて言葉使っちゃダメですよぅ」
「なんで?」
「だって!!俺どー答えたらいいかわからないですもん。マジ」

 大真面目に言う彼に神は吹いた。彼がそういうなら、自分も好きにリードさせてもらおう。どうせ今自分たちがいるのは少し広いだけの個室のようなものなのだ。他に通りすがる誰もいない。

「理由がわかれば答えてくれる?少し話をしようか」

 神の落ち着いた声に、洗脳されるように清田は神妙に頷く。こうなった経緯に興味はあったし、何とか落ち着かない関係を構築するのを避けたいという感情もあった。清田にとって神はかけがえのない人であったから、それを不信人物のカテゴリーに放り込むのは気が引ける。

「え〜と、今年の春清田が入部してきたでしょ?」
「ええ入部して来ました」
「で、一緒に練習したでしょ?」
「練習したっす。その節はお世話に…」
「で、気づいたら好きになってたと」
「短っ!」

 今度こそ清田は本当に度肝を抜かれた。聞かされたって先刻と何一つ事態は変わるものでない。一種のミステリーの問題ではないかこれは。わかった?とでも伺うように大きな瞳でじっと見つめてくる神に清田は、わかったけどわかり易すぎてかえってわけわからなくなったっス。という表情で見返した。

「思えば告白されたのなんて初めてで、えー?やっぱそーいう意味に捉えていいんすよね?」
「うん。恋愛しようよ恋愛。巧いよ俺」
「どーいうのが巧いってんですか。もう」

 額に手を当てて下校を振り返りながら、清田は神の台詞を反芻した。例えば、今日も練習が長引いて、いつものように3Pシュートの練習に明け暮れる神と別々に下校していたら卒業するまで彼の告白を聞くことはなかっただろうか。清田が練習でへばっても、一定のフォームで延々シュートを続ける神を見学していたときから、思えば彼は何者かと考えていた。
 先輩にそういう興味を抱くのはきっと罪悪だ。後ろめたい。

「つけこむのが巧いんだ。うろたえてるとこにズバッと差し込む。言葉もシュートもね」

 それも長所なのに諸刃の剣のように思えてしまうのは、やはりそれが神の本質を隠してしまっているからなのだろう。言葉と行動と笑顔のオブラートで。何者なのか、と他人に思わせる。

「…じゃあ俺も告白しますよ。気を悪くしないで下さいね」

 そして相手から計画通りの台詞を引き出すことに成功して、笑顔の裏で笑顔をいっそう深めるのだ。

「神さんは俺にとって不思議な人過ぎて、告白されても不自然だなんて思わなくさせて、正直自分の方が何かわかんなくなってくるんすよ。そーいうのは苦手…かも」

 自分の台詞にワケがわからんと首をかしげる清田に神は同情する。気を悪くするなんてことはない。
 何事にもはっきりきっちりとした対応をしたがる後輩に神からの告白は酷だっただろう。早まったとは思うが間違っているとは思わなかった。誰でも自分に純粋に興味を抱かせるのは難しいことだ。 

「自分でも不思議な野郎だなって思うから清田、気にしなくていいよ。きっと何者かなんて考えてるんだろうけど、信長は俺の自己分析なんて聞きたいわけじゃないんだろう?」

 青い空から吹く風に色が付いていないのは、こうしたときの配慮だろう。戸惑う表情も、照れて紅潮した頬も、素直に輝く双眸も、自然になびく髪もちゃんと見て取れる。
 ちゃんと車が流れる大通りに出る手前で清田が立ち止まったのは、蒼の密室でけりをつけたいことがあったからだろう。誰も通らない。2人しかいない。

「こう、俺が神さんのことばっか考えてるのは、俺が自分で神さんを解き明かしたいからでしょうか?これってちゃんとあなたを好きだって事になるのかな?」

「そうだよ。ほかになにがある?」

 自信に満ちた台詞を述べたのは、もうここから逃がすつもりはないからだ。俺だって何も悩まずに君を好きになったわけじゃないんだよ?でもただの人間だと思われると彼の“特別”から外れてしまうから。神宗一郎は清田の未知のいきものでいよう。で、少しづつ、君に惚れてる単なる馬鹿だってことをわからせてあげよう。

 ミステリアスでいることは気分がいい。純粋な興味は愛情ではひけない、そこに打算が混じるなら。 神は電柱のそばに清田を引き寄せてもう一度ぎゅうと抱きしめた。肝が据わっているのか今度は清田はうろたえない。逆に神の背に腕を回してきたりなんかして何とも風情がある。

「俺にとっては、信長の方が不思議だったんだけどね。頬や唇や首筋に触れても抵抗しないんだから。これからは精一杯抵抗してね。俺以外には」
「…俺以外もなにも、神さんしかこんなことして来ないっすよ」
「世間は見る目がないね。それも悔しいかな」

 抱きしめられながら、もう少し可愛げのあることを言った方がいいのかと清田は思考した。先ほど兄貴のようだと思ったはずなのに、もう恋人の思考になってしまっている。気づいているのかいないのか。

「今気づいたんすけど、俺も神さんも男でどーしましょう」
「どーしようかねぇ。これから考えるか」

 能天気にしかなれないのは、空がすっからかんに青くて涼やかな風が吹いていて、通う海南高校からすでに遠く離れ、ここが地上のどこでもないように錯覚させるからだろう。
 肌を焦がす夏ももう、逝く。好き同士が抱き合いやすいように。

「清田が“どきどきする”なんてかわいいことを言うから。今日、告白してもいいかなぁて思ったんだ」
「怖いっすよ。それが成功しちゃうんだもん」

 本心から怖いのに、清田はくつくつと笑い。眉をゆがめた。

「優しくするよ。2度と何者かなんて思わせないで、怖がらせないって約束しよう」
「いいんすよそんな事言わないで。それだけは神さんきっと守れない」


 じゃあせめて身体だけは怖がらせないように。
 最初は崩れやすい砂糖菓子に触れるように慎重に。

 いずれ無骨にもなんにでも育つだろう、まだ艶やかな少年の顎を掬い上げ、神は清田の容貌を確かめた。二重の瞳は凛々しい。人懐こい唇だ。きっと学年があがれば目の肥えていく女子にももてるだろう。

 ―――もう誰にもあげないけどね。

 彼が怖くないようにゆっくり近づける。薄い唇の皮膚が同じ場所に触れて。
 清田はほんの少し揺らいだだけで拒絶しなかった。他チームの先輩にも物怖じせず噛み付く彼が。

「…んぅ」

 神は少し感動して後輩の唇を味わった。口付けが自然だとなじませるんだ。
 きもちいいことだと教えてあげる。痛いことはさ、まだ逃げられる心配もあるから。

「…あっ、息が…んっ」

 深い舌の遊戯に翻弄されるのに苦しいのか、清田がぞくぞくする顔で喘ぎ、至近距離で神を見つめ返した。うっそりと神は安心させるように微笑み、再び交接を繰り返す。唾液が混ざり合い、清田は始めてみせる表情をさらけ出し、卑猥な音が大通りを死角にして響き渡った。
 誰も気づかない。ここは蒼の密室。

「信長。こうすることはきもちいいだろう?」
「うん…アッ、ン…き、きもちいいけど、なんかおかしく…んっ」

 答えきる前にまたリフレインされる。清田はぼうとしていく頭の隅で、この人が言うならそういうことなんだろう。と納得した。

 心地よいだろう?と目で訴えて、いずれねだらせて、神の与える快楽を覚えさせていく。
 万が一、俺が清田を手放したときに、俺が背負うものはなんなんだろう。
 きっとそれは、密室でころされても文句も言えないような罪深いことなんだろうね。
 そしてそれは、稚拙なキスにも感じてしまうこの体をもっているようじゃ、永遠にこないことなんだろうね。

「…俺のことお前がわかるまで、ずっとキスしてようか、ノブ」

 神は清田を腕の中に閉じ込めたまま、熱を孕むこの関係にずっと浸っていたいと思った。
 きらきらと空に反射する夏色の密室。
 それはひどく甘い、日々の前触れで。俺たちはその日ミステリーになったんだ。




fin~