騎士と姫君。



初めて会ったときのことなどもう覚えていない。
けぶる紫煙と掃き溜めの臭いの中、記憶は血の色に溶けていった。
しかし俺はお前を見たことがあった。正確にはお前に似た人物を。
近くで、お前が動くたびに思い出した。

直情的だがどこか思慮深さを兼ね備えた鋭い瞳。
しなやかな筋肉のくまなく覆う鍛えられた肉体。
綺麗に長く通った器用さを感じさせる指。
曇りひとつない澄んだ声と快活な笑顔。
好戦的な、けれどどこか落ち着いた性格。


お前、ブラウン管の中のプロスポーツ選手ってやつに似てるわ。




「鉄男っ!!」
「泣くだけならどけ!!邪魔だ!!」

額から滴るほどの血液を垂らした男がそう叫んだと同時に、ひゅんと空気を裂く長い物体が彼の胸元を掠めた。その瞬間から、またぱっと赤の霧が淀んだ空気に混じる。
自らが鉄男と呼んだ男を、部屋の壁に背で縋って少年はガチガチと震えながら見守った。返り血のせいでぬめったセミロングの髪が、シャープな頬線に汚れた筋を引くのも気にしている場合ではない。
何か自分もやらなくてはならないことがあるはずだ。
しかし少年の思考はその文章に支配されつつも、全く持って身体はその意志通りには動いてくれなかった。
足元に倒れた仲間の男を気遣いつつ、2、3人の凶器を持った相手に奮闘する鉄男をただ離れた位置から見守ることしか出来ない。助けを呼ぼうにもこの地下室の上には吹き溜まりの街路しかない。

―――三井、てめぇいつからこんなに弱くなったんだ?

やっと思考が別の文章を弾き出し、その自身への問いかけに少年―三井は歯軋りした。1年前の自分ならきっとあの暴力の渦の中へでも恐れずに飛び込み、鉄男を助けられなくとも彼が相手取る幾人かに一発は鉄拳をかませたはずだ。それが正しい選択なのかはわからないが、それでも少しでも鉄男が殴られる回数が減るなら、その方がいいじゃねーか・・・と思う。

「竜、竜、起きてくれ・・・鉄男死んじまう・・・」

三井は視線は鉄男にやったまま、薄汚れたアシックスを履いた足で軽く足元に横たわる仲間をこずいた。しかし長身の彼は起き上がる気配も見せてくれない。ダメージの大きさは、ひびの入ったコンクリートに染み込む唾液と血液の量で推し量ることができた。
そして三井はその赤を視界に入れたことで、自身の受けた傷を思い出す。腹筋を縦断する赤の線と、右の太腿の切り裂かれたジーンズから覗く、変色し始めた生々しい液体に軽く眩暈を覚え、三井はその場にずるりと座り込んだ。

「チィ!」
鉄男は鉄パイプで殴りかかってきた大柄の男を、ショルダータックルで弾き飛ばすと、すばやく体勢を立て直しその筋肉の隆起した太い腕で新手の男を殴り飛ばした。しかしその攻撃のふいをついて、今度は背後から別の背の高い青年がバイクから抜いた配管を鉄男の頭部にたたきつけた。
「鉄男っ!!」
今度こそ三井は叫んで鉄男に加勢しようと立ち上がったが、その筋ばった足首を瞬間掴んだものがいる。
「竜・・・」
三井は先ほど口にした名をもう一度呼んで、足首を掴む彼の指を引き剥がしもしないままその場に片膝をついた。
横を向いた竜の汚れた顔面、更に汚れた唇が言葉を発したように微かにわなないたが、それが三井には聞こえなかったため焦れて彼は怒鳴った。
「何故止めんだ!?鉄男は俺が侵したミスのせいで今死にかけてんだぜ!?」
そうだ。自分が自分の力を見誤って、とてもてめぇだけでは背負いきれない勢力を相手取ることになってしまった。
一年前まではそんなことなかった。もっと理知的に物事を捉えることができた。
三井の言葉の余韻が消えないまま、今度は竜ははっきりと声を出した。
「・・・三井・・・ココでてめぇが行ったら鉄男絶対てめぇを殴るぜ。賭けてもいい」
「なんで・・・んなこと言うんだよ・・・」
まるで誰も自分のことをわかってくれない。その存在が認められていないような錯覚に陥り、三井は情けない声を出した。唇が震えていた。

「なんで?そりゃ鉄男はよ。お前のヘマごとお前を受け入れたからだよ。だからそのヘマを清算することはあいつの責任なわけ。だから邪魔するものはお前であってもあいつは殴る」
「俺は!そんなつもりなんか・・・」
「だろうな」

竜の掠れた台詞の本意が汲み取れず、三井は端正な面を渋く染め、背後から聞こえる打撲音と共に一層それを険しくしていった。

「ようするに」

竜はそこで仰向けになって胸元からくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出し、その中から一本を唇に加えた。

「鉄男は自分勝手なんだ」

竜の台詞と三井が振り向いたと同時に、鉄男がゆっくり地面に倒れていくのが、見えた。




「お前が背負ってくれた俺のケジメ、自分勝手の一言で片付けられたぜ」
三井の、自嘲を含んだ声が頭上に降ってきて鉄男はふっと目蓋を上げた。少し血液がこびり付いていたようなピリッとした感覚が顔面に伝わる。視界が拓けた後、真っ先に鉄男が認識したのは三井の端正な顔だった。聞いた声と比例して、少し唇を吊り上げている。
「竜か。言ったのは」
鉄男は乾いた声で呟いてから、後頭部にある感触に違和感を感じて眉を少しだけ潜めた。
「何微妙な面してやがる・・・てめぇ後頭部やられたんだからコンクリートに直に寝かしちゃやべぇだろ・・・」
三井はふいと視線をそらしたが、その場から動きはしなかった。あたりまえだ。鉄男の頭をシャツを自分の敷いた太腿の上に乗せているのだから。
「・・・男の膝枕なんて固ぇし変わらねぇよ・・・それに出血は多いがたいした痛みじゃねぇ・・・」
「大丈夫かそれ?死にかけて痛覚麻痺してんじゃねぇの?」
ヒヒヒと三井は下品に笑ったが、鉄男には彼が何かを無理して我慢しているように聞こえた。
思い至ったのはふたつだ。確か三井は太腿に傷を負っていた。鉄男の後頭部が出血しているためもともとそこには濡れた感触を感じているが、そこには何割か三井の血液も含まれているのだろう。
そしてもうひとつはこのプライドの高い男が―――

「で、どうやってあいつらから解放されたんだ俺ら・・・」
「・・・俺が」
先ほど喧嘩を繰り広げていた場所から、敵方の男だけをとっぱらった部屋を認識した鉄男の問いに、静かな視線で三井は口を開いた。
こういうときに彼は隠し事をしない。多分、最深部に一番大きな嘘を抱え込んでいる男だから、それを守るのに必死で、他のことを秘める余裕などないのだろう。三井の流れる声に鉄男は目を細めた。
「俺があいつらの前で土下座したよ。あいつらも相当竜や鉄男にやられてたし、土下座しながらもバックにちょっとした大物がついてるってハッタリかましてやったら、あいつらが先退いてったぜ」
「ほ・・・やっぱり最初に頭潰しといて正解だったかな」
「だな」
鉄男と三井はそこで初めてにやりと笑いあった。三井が街中で喧嘩を売った相手が界隈の大手だと鉄男は知ると、まず全てを賭けてそのグループのボスをノックダウンさせた。そして次は幹部クラスの人材をbQの竜と運動神経にモノを言わせた三井で連携して潰していく。そうすれば残りは司令塔を無くして統率を乱した雑魚ばかりを相手取ればいい・・・誤算はその雑魚の予想外の人数のみだった。
「結局てめぇがケジメつけたってことか・・・」
「たりめーだろ。俺にも何かさせろよ。俺役に立つだろ?」
強気の声の中、僅かに含まれる哀願を見透かして、鉄男は表情は変えず心中だけでため息を吐いた。
こういうところがうざったい。

「・・・三井は必要とされたいのか?」
「あぁ?んだよそれ」
露骨に眉を顰めた三井を気に留めもしない。鉄男はかろうじて動く手でタバコを取り出し三井に催促して火を点させた。

「最初からてめぇ俺らに売り込んでたろう?自分の価値ちらつかせてよ。だが、てめぇそんなタマじゃねぇよ」

鉄男の辛らつな台詞に三井の痩せた肩が一瞬震える。それはまさしく彼が彼の立っていた舞台から降りたときから自問自答していた台詞で、三井は自分の存在のあっけなさに視界が蜃気楼のように霞むのを堪えていた。

「今のままのお前じゃ価値がねーんだ。正直俺は何でお前なんか拾っちまったんだって思ってんよ。甘ぇし情けねぇしすぐ泣くし…うぜぇ」

鉄男は言いつつ、ヴァージニアをふかした。三井の足に頭を預けたまま上に向かって煙を吐露したので、自然三井の顔はその紫煙の奥に掻き消える。

「やっぱりな。お前は自分勝手だ」

笑いを含んだ声だけ鉄男の耳に届いた。
鉄男がその反応の不自然さに疑問を抱く間もなく、鉄男の頭が長い指によって押しのけられ、やんわりとシャツを敷いた地面の上に置かれる。鉄男の重さから膝を抜いた三井はそのまま長身を屈め横たえた鉄男の脇に陣取ると、細身に一枚だけ付けたタンクトップを脱いで竜から与えられたカッターナイフで切り裂き始めた。

「・・・?」
「すっかりぬるくなっちまったな」

鉄男の怪訝な目線には気づかないふりで三井が次に取った行動は、抗争が起こる前三井や竜が買い込んだ酒を一瓶開封することだった。
「消毒液がねぇから」
そこで初めて鉄男が三井のやろうとしていることを理解したと同時に、三井は白い喉を反らせ一気に酒を煽った。そしてそのまま自身の裂傷を負った腹と太腿にぶっと霧状にして吹きかける。整った面に似合わず豪快なことをやる男だ。
三井はそのまま肌に酒が浸透するのを眺めていたが、これなら大丈夫と言わんばかりにニィと口角を上げると鉄男に向き直った。
「ちぃと沁みるが我慢しろい」
そして今度はそのまま大胆に鉄男の全身にアルコールをぶっ掛ける。
そしてそのまま酷い傷には先ほど裂いたタンクトップの切れ端をまき始めた。慣れた手つきに鉄男が疑問を口にする前に、三井は言った。
「テーピングとは少し要領は違うんだけどな・・・」
彼の、置いて行った世界の話だ。鉄男は何も言わず、そのまま三井に身を任せていた。


唐突にバンと部屋の扉が外れそうな勢いで開いた。
「鉄男生きてっかぁ?徳男がヤブ医者と話つけてきたぜ。三井も来い」
顔を見せたのは先刻から姿が見えなかった竜だった。どうやら外界の仲間と連絡をつけてきたらしい。三井はその姿を認めるとふっと息を吐いて姿勢良くすらりと立ち上がった。鉄男は、その姿をどこかで見た気がした。

「・・・どーしたよ三井?酷ぇこと言ったぜ俺。いつものように泣けよ」
そして・・・俺に縋ればいい。とは言える筈もなかった。
鉄男は竜には届かないほどの声で三井の背後から囁いた。
しかし―――

「バカにすんなよ鉄男」

瞬間三井の周りに走った殺気に、鉄男は押し黙った。酒の臭いが充満する空気の中に立つ三井が異質なものに映る。しかし次の瞬間三井の肩はすっとなだらかな線を取り戻し、初めて邂逅した15歳の幼い姿を髣髴とさせる仕草で三井は振り向いた。

「俺は三井寿だ。それ以上の以下の価値もない。でも泣かない」

そう言ったとび色の瞳は力強かった。彼が何かから逃げてきたという事など信じられないくらいに。
お前、マジ何で逃げてきた?そう問い掛けたかったが、鉄男はそれを今することで三井は元の世界に帰ってしまうのではないだろうかという危惧を抱いた。そんなことを考える自分にも危惧を抱いた。
三井は再び悪戯めいた笑みを唇に上らせた。

「お前が自分勝手だからよ。俺も自由自在に振舞うことにしたんだ。」
「・・・とっととそうしてりゃいいんだアホ」

俄然守りたくなった。この我儘で自由な男を。
三井が鉄男を必要としているくらい、鉄男も彼に必要とされたかった。今気づいた。自分の存在意義に。
そして鉄男は三井の驚いた顔に、自分の口元に昇るいつもとは異なった笑みに気づいた。

「鉄男!俺のガッコに生意気な2年がいてよ…ちょぉシメるわ」
「へぇへぇ。好きにやれよ…」
「おう。お前も好きにしろい」
「へぇへぇ」

多分、初めて三井が鉄男の表情を伺わずに提案したことだった。しかし好戦的だが思慮深い、彼には似合わない色を持った―――
だから鉄男は少し違和感を感じて、そのときの彼の提案には乗らなかった。このときから三井との間に少しの距離を感じ始める。
ただ、この自身の存在に価値を見出そうとしている男が、少しでも殴られないように守れれば鉄男は鉄男という存在でいられる―――

「三井、約束しろ。お前どうしても勝ちたいときは俺呼べ」
「?ああ。じゃあ俺からもひとつ・・・」
「なんだ?」

「俺と、ダチんなろーぜ。助け合えるようなさ。自由で対等な―――」



―――そして、彼を茨の城から解放してやるのも、きっと自分の役目だった。



「じゃあな、スポーツマン」
やっぱりお前、見たことあったわ。
ブラウン管の中にいるような、洗練された選ばれた者だ。
だから届くわきゃなかったな。


三井はただ彼を見ていた。
凛々しい鳶色に灼きつけるように見ていた。



約束したぜ鉄男。俺は約束した。
初めて会った日お前が俺の全てをその無骨な手のひらで掬ってくれたことも、あの光のなかった日お前が初めて優しく微笑んだことも、俺はお前の全てを忘れないと自分に約束した。
この2年間を無駄だと悔いて涙したこともあったが、それは自分勝手な俺たちのことだ。お前も俺拾って後悔したことあるだろ?てゆうか言ったよな?
めまぐるしい日々の中、
憎しみも愛しさも骨格の形も血の色もいつか忘れるだろうが、お前の存在はその姿は焼き付いて離れねぇ。
お前の存在だけ鮮明だ。そこにいたことだけ事実だ。
俺がここにいるのは、その事実があったからだ。

俺たちが死ぬまで、俺たち、未来永劫続いてくんだ。




ヴァルハラに必要とされ再び光の通路に踏み出した姫君と、
その姫君を帰すために悪役となった騎士の話だ。








うおお〜!!鉄男大好きだー!!!!(絶叫)
しかしなぜかカッチョ悪いような気も・・・(汗)