快晴の条件。




まるでここが太陽の下だとでもいうように。鮮やかに笑った彼に惹かれた。






「や・・・だめだ、宮城・・・」

その吐息と絡ませた熱は、雨の降りしきる音すら溶かして無に変換する。
声の主の火照らせた頬の上僅かに潤んだ眼差しの奥に、はっきりとした拒絶
の色を見て宮城は行動を止めた。殆ど一方的に噛み合わせていた唇を、彼の
それからゆっくりと離す。キスの余韻に微かに喘ぐ長身の男は、宮城の目
にはとても魅力的に映った。三井寿。それがこの男、宮城の財産の名だ。

「なんてことテメ・・・ごほっ、変なとこに空気入った・・・」
「あれ?息は出来たっしょ?今は苦しくないようにやったっすよ」
「ちげーよ!ひっ、人が後ろに・・・」

三井の焦った声に、宮城は差していた透明のビニール傘ごと振り返ると、
そこに中学生にも満ちていないだろう2、3人の少年の姿を認める。
純朴そうな彼らは目撃したものに対する驚きを隠しもせずに、雨が叩く
アスファルトの上ぼうと突っ立っていた。
両脇にガードレールが敷かれ、その奥に民家が軒を連ねる夕方の住宅街の一般道。
しかし天候のせいか、今は彼ら以外に人は存在しない。

少年たちに不意打ちで受け入れさせられたキスシーンを凝視されうろたえる
三井と対称的に、全ての原因である宮城は冷静にガードレールを隔てる少年
たちに対峙していた。
そして何を思いついたのか、再び三井の唇に伸び上がるようにして噛み付く。
そのスピードと、三井の細腕を掴んだ力の強さに、ないがしろにされた
傘が勝手に重力に引かれた。
「―――っ!?」
限界まで見開かれた三井の双眸を見つめ返すと同時に眼を瞑り、宮城は
全神経を口元の繋がりに集中させ、突発のギャラリーも雨のかかる冷たさすらも
忘れて自身を駆け巡る征服欲に酩酊した。
三井の長い足が貪られる激しさにがくっと崩れ、今だけ身長差が逆転する。
遠くで誰かが息を呑む音を微かに聞いた。


―――俺、キス巧いンすよ。いやマジで。俺フッたら損ですよ!
―――・・・あんな。快楽で買収しようとすんじゃねーよ!このダボが!
―――買収したいほど本気ってことっス!泣き落としにかかりますよいいんすか!?
―――ああ、好きなだけ泣けよ!俺も泣いてやっからよぉ!
―――いや、やっぱ俺泣けないんすわ。だって・・・


束の間巡ったいつかの晴天の日の争いを遠くにやり、宮城はうっすらとまぶたを上げた。
快楽に崩落しかけた三井の身体を支え、自らが翻弄した様を満足げに眺めると、
そのまま視線をそこに縫いとめられたように微動だにしない彼らに流す。
雨の水分とは異なる液体に濡れた口元を右手親指で拭い、宮城は挑発するように
唇を吊り上げた。

「・・・お前らも喰っちまうぜ?」

少年たちは我先にと、開いた傘をぶつけ合いながら逃げて行った。





「うわははは!カワイっすね!真っ赤になって逃げてきましたよあいつら!」
小学生だろう災難な少年たちが去った後、傘を拾った宮城は楽しそうに笑ったが、
これもまた災難な三井はそうもいかなかった。全身を羞恥と怒りに震わせ、部活時
に本領を発揮する長い指を持つ拳で思い切り宮城にストレートを極める。
面白いほど吹っ飛んだ宮城に掛かった力は、確かに成人近い男の持つ平均的な
エネルギーだった。
普通男は、そんな青年と接吻を交わしたりなどしない。
しかし道路に倒れまた傘を投げ出した男は、それだけが至福だと言わんばかりに
三井を求めてくるのだ。三井本人にはそれが理解できていなかったが。

「てめぇ!!どこまで俺に恥かかしゃ気ぃすむんだ!」
肩を怒らせ叫ぶ男の声を物ともせず、宮城は冷静に立ち上がり学ランの汚れを
検分した。この時刻だと明日までに乾くのか心配になる。
そしてようやく宮城は三井に軽やかに笑いかけた。
それはいささかこのシチュエーションには不向きな表現であったが。
「恥?アンタそこらのエロビのねーちゃんより色気あるし。見られるのは恥じゃねぇ
すよ。むしろ高2にもなってこの格好で家に帰る俺の方が恥」
「そういう問題じゃねぇよ!バカヤロウ!羞恥心ねぇのかてめぇ!!」
「人並みにはあるつもりですが。でもアンタの前には塵に同じ」
「開き直ってんじゃねぇ!!」

シケた空気の中でもよく通る声で怒鳴ると、三井は疲れたように眉間に皺を刻み
ため息を吐いた。宮城はその様子に、少しだけ心を痛ませ少しだけほっとした。
こうやって、三井がひとつずつ許していくのを待っている。
しょうがねぇ奴だとあきらめて。いずれ心の最奥に到達するまで許してくれるのを。
困らせたり疲れさせたりするのが好きなわけじゃなかった。
普段の関係を壊さずに、全力で求める方法をこれしか知らなかっただけのこと。

笑ってしまうくらい宮城と三井はトモダチだった。あの邂逅からそうなれた
だけでも奇跡なのだから、もう一度それが起こっても不思議ではないと宮城は思う。

だからどんなに邪険にあしらわれても宮城は挫けたり泣いたりなどしなかった。
絶対に。

「でも気持ちよかったでしょう?」
三井が受身のキスを許すのは、それだけでしかないと悟っている。それしか
利益が無いのに、彼が受諾してくれていることがすでに奇跡だ。
「・・・バカヤロウ。変態め・・・」
色香を潜め、負け惜しみを言うふてぶてしさを宿した表情も、自分の存在ひとつで
千変万化する様が奇跡だ。
「恋する男なんてこんなもんなんス。漫画の世界じゃないですよ」
ふっと皮肉げに笑い軽くあしらう。険のある表情を向けてくる彼に、胸中で
「ごめんね」と片手をあげる。そんな表情も好きなんだ。

ほら、奇跡なんて単純だろう?気持ちひとつで簡単に感じ取れる。起こせる。

「・・・だったら俺、恋なんかしねー。ダッセェ・・・」
そう言って三井は、奇跡の軌跡を描く長い指で、湿り気を帯びた柔らかな茶髪を
苛立たしげに梳いた。忘れがたい夏より、少し前髪が伸びていた。
その茶色に微かににハイライトをかける陽光を認めて、宮城は視線を上空に投げた。
「あ、雨あがった?」
そして先ほどまで響いていた音の消失にも気づいて透明の傘を足元まで下げた。
灰色の雲の中から一筋、光の帯が見える。その隣で三井も傘を早々にたたむ。
「降ったりやんだり・・・うぜぇ。変わりっぷりがてめぇみてぇだ」
「酷ぇ!俺はいつでも快晴じゃねーすかぁ〜」
厚い雲の隙間から差し込む光に目を細めて、宮城は傘を閉じた。
まもなく、夜を引き連れてくるというのに。その光は眩しかった。
―――だったら俺、恋なんかしねー。ダッセェ・・・
宮城は、暖かな色を持つ光に何故か涙腺が緩みそうになって、堪えた。



帰宅して、三井はすぐさま自分の部屋のベッドに倒れこんだ。
そしてすぐ湿り気を帯びた学生服に気づき身を起こす。宮城の不意打ちの
せいで、倍濡れたそれをうっとうしげに脱いで、出窓のそばのフックに
ハンガーを通してかけた。
薄いカッターシャツ一枚になると、さすがに季節のせいか寒い。それとも
冷えた学生服に体温が奪われていたか・・・
あんなに、暑い時もあったのに―――三井はそう思って、記憶を初夏の始まり
に馳せようとしたのだが、なぜか先刻の宮城と交わしたキスの熱さが想起され
慌てて集中を散らす。額に手を当て、どうしようもなく唸った。

「やべぇ。病んでる・・・」

三井は一度フローリングにへたり込みそうになると寸前で立ち上がり、
よろよろと着替え、バスルームに向かった。



宮城はそれでも上機嫌だった。日に日に、触れる回数が増えていく。
雨に濡れて冷えた身体を、シャワーノズルからあふれ出る湯で再び濡らしつつ、
篭った空気に鼻歌を混ぜる。サビさえうろ覚えの洋楽。
しかし―――
「三井サン今何してんのかな・・・」
思わず呟いて、苦笑した。一人になるとふとした拍子に弱気の自分が姿を具現化させる。
常に攻めていないと少年の心は弱いのだ。立ち止まって考えるのが苦手だ。
薄い瑪瑙色のバスタブに身体を沈ませ、それでもいっぱいいっぱいの脳みそで
宮城は想い人のことを考えた。熱い唇の感触、僅かに接触した裸の腕、日差しの
強さを持つ視線。そして彼に更に近づくための攻略法。
なんて容量があるんだろうか、たった一人の人間の中に。
宮城は明るい未来設計の困難さにため息を吐いた。湯気で曇ったバスルームにそれは溶ける。
湯に晒されない肩の温度だけ下がってくる。そこに片手で掬った湯をかけ、そのまま
手のひらで二の腕あたりをさする。成年になりかけの、筋肉質の肌だ。
きっと彼も似通ったものを持っている。
まだ、自らの感情の片鱗さえ自覚していないときに、じゃれあって触れた肌の感触が
思い出せなくてときどき勿体無さに歯噛みする。
三井への恋愛感情に気づいた時にはもう普通のスキンシップを無意識に拒んでいた。
もの足りなさに泣きたくなったらどーすんの。
でも触れたい。めちゃくちゃ触れたい。あのどう見ても男の身体にどうしても触れたい。
矛盾する気持ちに煩悶しながら、もう寒いわけでもないのに、また腕をさすった。
きっと、あの人の最も触れたい部分はこんなところじゃない。
もっと奥深く、互いの正気を疑うような個所だ。
根が純情な宮城は、そこまで―――三井の裸体を潔白のシーツ上に敷き、自分が
それに覆い被さるまで―――をイメージしてみて知らず頬を染めた。
キスだけでも奇跡だって、嬉しいって、ついさっき思ったじゃん。

定義づけた奇跡だけではもう全然この想いに足りなかった。

ちっせぇ身体で知性も理性も総動員して、バスケットボールの感触すら忘れるくらい、
白いあの肌に触れたい。
いつものように唇に触れて、首筋を啄ばんで、そこから先、未知の感覚に溺れたい。
三井の、薄い胸の中にある感情の中枢に触れたい。

でもきっと、そこまでは三井の気はフれてくれない。





三井は洗面所の大きな鏡の前に、バスタオルを腰に巻いた格好のまま突っ立っていた。
普段となんら変化ない、少し不機嫌そうな長身の青年の姿がそこにある。
それでもこのように、全身を映して見るのは思い出せないほど久しぶりだ。
バスルームを出て、何故かそのまま肌を伝う水滴を拭おうともしない。
透明の雫が太腿から脹脛、臑まで伝い、足元の毛脛の長いバスマットを湿らせた。
三井は挑むように鏡の中の分身に視線をやり、そのまま自分の肩口あたりにすらりと
細長い手のひらを這わせた。
水のせいか、もとからなのか。その筋肉が薄く張った部分は滑らかな質感が。
鏡の中の細身の青年は、視線を正面に固定させたまま、さらに手のひらを肌に添わせた
まますっと下げ、浮いた鎖骨、薄い胸から腹部にかけてゆっくりと滑らせていった。
水滴を道づれにして。隆起の少ない身体は滑らかだったが、確かに男のものだった。
胸に衣服を押し上げるふくらみもない。削げた腹は何を宿しもしない。
こうして撫でられても、何も感じない。三井は腹筋に手をやったまま、そこでようやく
にやりと唇を歪めた。
「俺なんてこんなもんだぜ?宮城ぃ・・・」
何か与えてやれるなんて出来そうも無い。もとからそんなことは考えていなかったが。
それでもあの生意気でしょうがないが、どうしようもなく憎めない男を喜ばせる事が
自分の唇ひとつで出来るなら―――
「友達でいてぇじゃねぇか・・・」
その単語の範疇では宮城は最上級の存在だった。“触れ合い”に寛容なのも、
その存在をなくしたり悲しませたりすることに、悔しいがビビっているせいだ。
しかし―――
三井はとうに冷えた腹に置いたままだった手を浮かせ、その親指をためらいを混ぜつつ
薄い唇に押し当てた。そのまま指の腹を唇の形に滑らす。
無意識に微かに開いたそれから、覗く赤さを視界に入れどこかが熱くなった。
何かを思い出した。

―――男でも、さすがにココはやーらけぇんスよね…そう、ちょっと開いて。
―――首、俺と反対にちょっと傾けて?ん。そんくらい。
―――目は閉じるもんスよ。あれ、意外とまつげ長い?あはは。怒んないでよ。
―――俺とでも緊張する?大丈夫スよ。俺、もっと緊張してっから―――

そう言って、初めて押し当てられた唇は。笑ってしまいそうなくらい震えていて、
何故か少し泣きそうになってしまってムカついたのを覚えている。
少なくともこの部分は。とうに気がふれている。

「・・・慣れちまったらどーすんだバカヤロウ・・・」

俺まで変態みてーじゃん・・・と続けようとして、もうとっくにその範疇に
浸入していることを否定できない自分がいて眉を寄せた。
本当はそんな定義、誰が決めるのだろう?
少なくともあの夏の終わり、今日と同じ雨の日、自分に告って来た彼の・・・
あの真剣さと、今にも泣き出しそうならしくなさ。そして唇からあふれ出た
一文は―――不自然さなどどこにも無かった。映画などより鮮明に、焼きついて
離れない光景だった。
もっともそれからのあのクソチビは、ところもなりふりもかまわず、自分にちょっかい
をかけてくるわけだけども。
無論唇以外のどこにも触れさせてやる気はない。男という性を持つ人間以外の
生き物に変えられるのは我慢ならない。

しかしどこかが―――三井はもう一度唇に触れる―――ここが。
変わることの無い日常を願いつつも何らかの変化を求めていた。

苦い表情で三井は指の皮ごと唇を噛んだ。
最初から間違えていたのだもう。一番触れさせてはいけないところを
最初に許してしまった。

「気をしっかり持てよ三井寿・・・」

鏡の中の己にそう呼びかけてみるものの、瞬く間に染まっていく頬の危うげ
な色を認識したくなくて、三井は慌てて背を向けた。


殺風景な自室に舞い戻って、開いたままだったカーテンを引こうと手を伸ばす。
その指先に、窓から伺える夜の風景の一点―――月がかぶった。
漆黒の世界の中、たった一つの光だ。
しかしうっすらと闇色の雲が月に重なっていく。
明日は晴れるだろうか?三井は思った。



自分がロック・アーティストであれば。
ずぶぬれの中、男が世界に向かって愛を叫ぶロマンティックな詞が書けそうな位
激しい雨だった。
無数の冷たい矢が窓を打つ音に目がさめる。そして今日が休日で良かったと思う。
もっとも午後から所属するバスケ部の練習はあるのだが。
三井はうっとうしげに寝癖のついた髪をかきあげ、寝乱れて胸元の露になった
夜着を乱暴に引き寄せた。
途端けたたましい電子音が部屋中に木霊し、三井はまた閉じかけていたまぶたを
うっすらと開く。枕元の携帯電話が液晶パネルの色を次々と変え、存在を誇示して
いた。最初誰かからの着信が入ったかと思っていたが、それは自らセットした
目覚まし用のアラームだったと気づく。2度寝する気を削がれて、三井は緩慢に
裸足をフローリングに下ろすと、クローゼットの前で適当に着替えだす。
薄手のシャツにパーカーをかけたところで、三井は視界の端のローボードの
上に置いてあるCDに目を留めた。
「あ・・・返すの忘れてた」
一度聞いたきり放置していた洋楽のそれは、あの生意気な後輩から半ば無理やり
貸し付けられたものだった。たしかコレを会う理由のダシとして自分と積極的に関係を
築こうとしていたのだ。
大胆かつ器用そうに見えて、少し臆病で不器用な奴だった・・・

三井は今日の練習時につき返してやるかと、ナイロンのデイパックにそれを
放り込んだ。




午後になっても雨は降り止まない。
しかしそれよりも強い床の上のバウンド音は憂鬱な気分すらも塗り替える
魔力を持っていた。ここにいる、10数名のバスケ馬鹿には。
しかし、肝心な一人が足りない―――三井は手の中の褐色の球体を虚ろな
動作で空に放った。しかしそれは高度を増し、遠くまで伸び、赤のリングを
通過した。
「三井先輩、ナイシューッ。次!桑田!」
「は、はい!」
副キャプテンの安田の通る声に、呼ばれた桑田が三井の先ほどまで立っていた
位置に走りこんできた。そして桑田のシュートの後には佐々岡が、ローテーション
式のシュート練習に参加する。
いつもその掛け声を掛けるのは安田ではなく主将であるあの男だ。
安田より少し掠れた色気のある声で、各々の名前をしょっちゅう呼ぶ。
「ミッチー。リョーちんどーかしたか聞いてないのか?」
夏に傷めた背中のリハビリから最近復帰したリバウンド王桜木花道が、春先から
彼の指定位置である体育館の隅でボールハンドリングを行いながら聞いてくる。
あだ名で呼ばれた三井は、彼をついと振り返ると眉をしかめて見せた。
「なんで俺が聞かなきゃなんねーんだよ」
「ぬ・・・デコボココンビの片割れとして相方の行動は把握しておかなければ・・・」
「だぁれが相方だっ!あんなぼんくらキャプテンの行動なんか知るか!」
「素直じゃないのうミッチー。心配なくせに・・・」
滅多にみせない意地の悪い笑みを口元に昇らせた花道に、図星を抉られ三井は
黙り込んだ。この後輩は初めて邂逅したときから、全く油断がならない。
「リョーちんは確かに俺ほど主将の器ではないが、責任感は強かったろうが。
無断欠席なんてするかなぁ〜。ミッチーではあるまいに・・・」
「ひとこと多いんだよバカヤロウ!」
口と共に思わず手を出した三井を、全く衰えていない反射神経でその細い手首
を捕まえることで花道は黙らせた。
「俺はリョーちんが心配だ。だからミッチーに探しに行って欲しい」
声と同じくらい澄んだ瞳に、三井は射貫かれ何も言えなくなる。
心の中だけで自分の声が鳴り響いた。
―――なんで俺?

「三井先輩」
三井の一瞬呆けた思考が、花道とは別の方向からかかった声に自我を取り戻した。
「安田・・・」
件の人物より更に背の低い安田は三井に近づき、真摯な表情で声を発した。
「集中が少し乱れてますね。向上心の感じられないプレイが目立ちます。
湘北バスケ部は再び全国を目指してるんで、真剣じゃない人はお帰りください」
傍から見ると酷な台詞だが、三井はそれよりも副主将のどこか温かみを感じる
眼差しに視線を奪われていた。かつて副主将だった、もういない眼鏡の友人に
似ていると思った。
「おう、ヤスの言うとおりだ!帰っちまえミッチー!」
調子に乗った花道のわき腹に三井は蹴りを一発見舞うと、体育館のセンターサークルに
背を向け更衣室にダッシュをかけた。その彼を不思議そうにシュートフォームの
まま流川が見遣る。
「ぐっ・・・ミッチーめ。この天才が気遣ってやったというのに!」
わき腹を押さえ、忌々しそうに唸る桜木に安田はふっと微笑みかけた。
「大丈夫かい桜木?でも三井先輩は君に感謝していたと思うよ。素直じゃないんだから・・・」
「そうかね?しかし言うようになったじゃねぇかなぁヤス」
まだ不服そうな面持ちをいた花道は、しかし副主将ににやりと唇を吊り上げた。
安田ももう一度、細い目を更に細める。
「俺は、リョータの親友だから。彼のために動くよ」
そう言って、ダムと一回バスケットボールを弾ませると、ぴっと指を上げた。
「さぁ!シュート練そこまで!次パス練だ!」
そうやって他の部員の輪の中に帰っていく、安田の少し逞しくなった後ろ姿を
花道は黙って見ていたが、ボールを両手でくるっとひとつ回すとポツリと呟いた。

「寂しいけど、変化するものから生み出される幸せもきっとあるぜ。ミッチー」



雨はやまない。一生やまないかもしれない。
彼と屋上で話す晴天の日は、もう来ないかもしれない。
それでも、きっと自分は今までの人生の中、数え切れないほど
そう思ってきたのだ。そしてその度にそれは裏切られてきた。
空模様は変化する。何日か過ぎた後首を僅かに反らせば、
そこには透明感の限りない、青の世界が広がっているのだろう。
同じように、人もまた自然が作り出した物体なのだから変化しないわけが無い。

桜木花道が完成に近い大人びた表情を垣間見せたように。
安田靖春がもう一歩踏み出した勇気を手に入れたように。

三井とあの少年も何かを変化させて手に入れて、何かを過去に置いてきた。
それが何かを見定めるため、三井は宮城に会いに行く。
背中のデイパックの中でかちゃかちゃと音を立てる虹色のディスクを、
今度は自分がきっかけにしようか。
でもそんなもの、本当は必要なかったのかもしれない。



雲ひとつない澄みきった空の下、もう一度聞かせやがれ。
あの雨の匂いの中告げた言葉を、今度はお前に一番似合った色で。
そこから俺たちは変化を遂げる。




宮城リョータは冷え切った手で、同じく冷えた携帯電話に何度も手をやり躊躇った。
冬にはまだ早いのに、青白くなった指先がぶれる。
時折森の中を抜ける風が、ひしゃげた自転車の前輪をカラカラと回した。
いつものようにワックスで額にかからないようセットした髪は、どしゃぶりの
雨の威力の前その効力をとっくに無くしている。
その雨の漣のような音と、自分の震える息遣いだけが、この誰も存在しない
空間の中リアルだ。
宮城はドジった自分にもう幾度目かわからない自嘲の笑みを漏らした。
「マズった・・・」
こんなはずでは無かった。年上のあの愛しい人をちょっと困らせてやろうと
思っただけなのに・・・
そして喜ばしてもやりたかった。
なのに本当に戻れなくなるなんて。
しかし自分が今まであの人に与えてきたストレスを考えると、それも仕方が無い
事のように思えた。自分があの三井にとって、奪うばかりで何も与えることが
出来ないのなら・・・もう触れ合うことも囁くことも必要ないし意味が無い。
その結論は宮城の自身に課す存在意義の大半を否定するものであったが、
それでも宮城は雨にうたれるまま、その場所にしゃがみ込んで微動だにしなかった。
泣きもせず、人間らしい表情すら浮かべず、宮城はそこに何時間も座り込んでいた。



宮城がどこにいるのか。三井にわかるはずも無い。頼みの綱の携帯電話は圏外
だったし、自宅にもいない。帰っていない。そこで自分に出来ることは何一つ
無くなったはずだ。
三井寿は自宅の自室に戻り、学生服をすばやく着替えて、フード付きのナイロン
パーカーと通気性のいいジャージに着替え、階下の母親の怪訝そうな表情にも
応えず再び外の世界へ飛び出した。傘も差さずに。
瞬く間に雨が三井の全身をくまなく侵し、シャープな横顔をなお白く染め替える。
しかし彼はその天の涙など存在しないもののように、ただ自分だけ誰もいない
街の一角に存在していた。
「さて」
三井は四方に視線を廻らすと少し微笑み、軽いフットワークで霧の中消えていった。







「なんか全身で泣いてるみてぇ・・・」


それが初めての再会のとき、最初に彼が発した言葉だった。
その低い印象的な色を持つ声に、宮城は突かれたようにはっと面を上げる。
栗色の頭のてっぺんから綺麗な爪を持つ足の先端まで、余すところなく長身の
先輩は水滴を滴らせていた。肌は青白く唇は不健康そうな色に変色してしまっている。
宮城は言った。

「帰って、風呂はいって、さっさと寝なよ」
三井も言った。
「じゃあ一緒に寝ようぜ」
宮城の生気の抜けていた顔面の色が変わり、瞬く間に人間らしい表情を形成した。
それを見てふっと三井は笑った。
「おめぇはホンットなんて俺様のことが・・・」
その先は少し照れくさくて言えなかった。くっと低く笑ってごまかす。
対称的に宮城は顔だけ背けて拗ねたようにぼやいた。
「ここまで俺を馬鹿にさせんのはアンタだけだ・・・三井サン」
「まだ抜かしやがるかてめぇは」

三井はぶっきらぼうに唇を突き出して言葉を吐くと、座り込んだ宮城の背中と膝裏に
両手をやり気合を入れて抱え上げた。
「うおりゃ!!」
「三井サン!?ちょとっ!!」
思わず宮城は三井の筋張った首筋に手を回す。大変微妙な構図が出来上がった。
「あ、やっぱ無理。てめぇ意外と重てぇ」
三井はうめくと瞬く間に彼をストンと落とした。
「いっ」
今度は衝撃に宮城がうめく。自転車で小さい崖の段差から転落した際、挫いた
左足に障った。三井はその宮城の反応を黙って見ていたが、やがて膝を折り少年
と目線を合わせ、静かに語りかけた。
「・・・安田が心配していた。桜木も。ずっと、お前が俺に告ったあの日から、
きっと心配していた。あんま無茶すんな。な?」
「・・・・・・」
宮城は三井の台詞の確信が掴めず、ただ彼の視線を受け止めることしか出来ない。
「奴らはお前が俺にしたことなんてきっと知らねぇだろうけど、お前が幸せになれる
ように心配していたんだ。お前マジ慕われてんのな。羨ましいよ」
「そんな。三井サンこそ―――」
言いかけて制止される。彼の話はまだ終わりではなかったらしい。
「奴らから見て、あんときからお前は変わったんだ。確実に。ただ俺にはそれが
わからなかった。まだわかっていない。お前はお前で、俺にとっては永遠に“お前”
のままなんだろう・・・たぶん」
しんとした空気に三井の独白と、雨の音楽だけが綴られていく。静かな、あまりにも
静かな時間だった。
三井は話しながら、最後に立てた膝に小さな頭を埋めた。

「宮城。だが俺は諦めねぇ。きっとお前の変化を感じ取って、そのとき改めて
考えてみるぜ。関係ってやつをよ」

だから、

三井は顔を伏せたまま、青い唇に笑みを刻んだ。

「晴れた空でもう一度言ってくんねーかな。あの言葉を。俺から
“ダチの宮城”をできるもんなら解放してやってくれ」

三井の挑戦状を宮城は受け取った。
酷い言葉を投げつけられたり、邪険にされるのは平気なのに。
優しくされると泣きたくなるのは何故だろう?


「三井サンが許してくれるなら何度でも」


視界を囲むパーフェクトブルーの中で。


「本気で」


ただ一人存在する少年。銀のピアスが反射して、視界の持ち主は目を細める。
目なんか今は無くてもいい。青が見えなくても太陽の周囲を感じさせる、あの声が
ヒアリングできる聴覚があれば。

「・・・泣き落としにかかるってことか?」
「それもいいっすネ。今だって足痛くて手ぇ冷たくて、泣きそうですし」
「ドジ。アホ。じゃあ泣けよ」
「でもほら、俺泣けないって言ったでしょう?」

宮城は濡れて額に掛かる髪をかきあげると、
はにかんだような笑みをその表情に乗せた。
三井には雨の筋が、見えない涙を創造しているように
見えたけれども。



「俺、アンタといると幸せなんで」



もう一度。
まるでここが本当に太陽の下だとでもいうように。鮮やかに笑った彼に確かに惹かれた。

宮城が見つけたこの場所は。
光のカーテンが無数に引かれるような幻想的な光景を、やがて彼らの視界に広げる。
様々な条件が折り合って出来るその現象は、明日の確実な快晴を予感させた。



Thank you for suisama/