本神社は、来歴によれば、天慶九年(西暦946年)社殿を再建、随時修理し明治五年に天武天皇宮を清見原宮と改められ、昭和十七年五月に清見原神社に改称された。
今回の拝殿の耐震補強と本殿・幣殿の改築を行うにあたり、出来る限り伝統工法を採用して設計および工事を行うこととした。
大阪市内における現存する神社の中では2,3棟しかない木造神社であり、写真のように新築の木造神社は大阪市役所の建築指導課における確認申請の履歴において過去40年でも今回の清見原神社だけであることがわかった。
それだけ建築基準法の仕様規定に合致しないのが神社仏閣等の伝統建築である。
大阪市役所との討議の上、伝統を極力現行基準法の計算法で計算し、伝統的なところはそのまま残し、ルート1による計算法で出来上がったものである。
この清見原神社の本殿では、建築基準法の仕様規定における耐力壁を「構造用合板」仕様で構成される垂れ壁と腰壁とその間にある連子窓を縦格子による半剛性のフィーレンデール梁とし、上下の腰壁・垂壁の耐力要素に水平力を伝達する工法とした。
そのため直径九寸のヒノキの曲げ抵抗は余力として見ており、必要最低限の性能は仕様規定で確保し、許容応力度設計の余力である、丸太柱による曲げ抵抗は予備的に付加している。
基礎仕様はRCのべた基礎にし、地貫に対しアンカーボルトで結合し基準法に適合することにした。
純粋な伝統工法では無いが、あらゆる事で伝統工法を継承し、法的に認められる構造の限界を追求した木造神社と言える。
幣殿・拝殿で採用した面格子耐力壁は、木構造建築研究所田原でよく採用している耐力壁であり、これををX、Y方向にバランス良く配置し、偏心率として0.15以下となる構造設計をし、十分な耐力を確保している。
また、屋根面の水平構面においては小屋組みの水平剛性が低いため、現在の工法である火打ち梁を設けて対処している。
工事中の様子
清見原神社の本殿・幣殿等における改築工事に関して最も重要となる木工事を担当した大工棟梁の沖棟梁の紹介です。
沖棟梁は木村工務店の専属というべき大工であり、先代から木村工務店の仕事に関わっており、その技術は非常に卓越したものがあり、大阪では有名な数奇屋の大工棟梁であった、故平田雅哉棟梁の弟子でこの道60年以上の大ベテランです。
この棟梁のすごい点はこのような大きな丸太を適切に加工するため工具を自分で工夫し、工具作りから手作業でやる人物であったということです。また、建築にあたっては沖棟梁のファミリーというべき弟子達や沖棟梁の子や孫が職人としてこの工事に携わったということです。
この丸太は樹齢200年の吉野ヒノキであり、この材料の調達先は木村工務店が銘木ならばここと決めている、奈良県桜井市の「金幸」から購入した材料であり、木口を見ても分かるとおりすばらしい材料であった。写真の通り、角材から八角形に落し、それから16角形にし、だんだん丸にしていくのである。
木村工務店と沖棟梁の施工方法として、木材の加工が終わった段階で、木村工務店の作業場において仮組みし、不具合が無いかをチェックし、また、再度解体し現場にて組み立て直された。
現場において上棟時においても仮組みしたのと同様な状態で隙間無く組まれ木組みの醍醐味感がそこにあった。
竣工式は木造の本殿が建設されるとあって大阪府の神社庁の代表である天満宮の宮司様が式典に出席され、盛大にとりおこなわれた。
完成した清見原神社の様子については、清見原神社公式サイトへ
完成式典の様子や、普段の様子が紹介されています。
鉛直構面の耐力要素は、在来工法による耐力壁式で建築基準法上必要最低限の安全性を確保させますが、耐力要素を土台から桁梁及び柱で囲まれた範囲に、組み込むことが必須となる。具体的には構造用面材耐力壁と告示1100号による面格子耐力壁及び筋かいで構成した。
本殿は意匠計画上から、弊殿からの入口を除く3方向壁面に連子窓(このままでは耐力壁として無効)が必要な為に、桁梁を上弦材、欄間窓の敷居を下弦材、その間に設けられる縦格子材をウェブ材とした合成梁※として、その下部を構造用面材による耐力壁※として有効とみなした。
(一部拝殿においても連子窓を合成梁※として、下部腰壁を構造用面材耐力壁※とした。)
これら有効な鉛直構面の耐力要素に対して、許容応力度計算の地震力と風圧力に対する検定を行い安全であることを確認した。